檜扇 (Hiogi wooden fan)

檜扇(ひおうぎ)とは、宮中で用いられた木製の扇のこと。
女性の用いるものは特に袙扇(あこめおうぎ)とも呼ぶ。

紙製の扇子(蝙蝠/かはほり)はここから派生し、檜扇を略したものとして普段使いに使われた。

形状

ヒノキの薄板を要で留めて、板の上部を紐で補強し折りたたみ可能にした扇。
要の止め具は本来和紙の紙縒りを使っていたが、現在は木釘や金具を使う。
要には補強・装飾の目的で金・銀・白銅などで作ったチョウや鳥の形の飾り金具を被せた。
柾目に挽かれた一枚の板を「橋」で数え、8橋をもって「一重」とした。
(ただし老人・若年者および子供用は板目に挽く)

成人男性用の場合は三重白糸綴じ、女性の場合は五重色糸綴じの扇を用いたが、偶数を嫌って実際は1橋分減らしたり増やすなどして奇数にしていた。

宮中行事の時複雑な式での作法などをメモする目的で用いられたとも言うが、女性の場合は他人の視線から咄嗟に顔を隠す場合に重宝した。

現在も用いられる女性用の檜扇は金彩や胡粉・紅・緑青などで吉祥画を描き、六色の紐を両端に蜷結びしてマツやウメ(タチバナを含むことも)の造化を飾り付けた美しいものである。

現在、皇族女性は一律に39橋の檜材の柾目挽きの扇に、松と梅の糸花(絹糸を使った造花)を飾り6色の糸で綴じたものを用いている。
詳細は後述。

檜扇の作法

檜扇には宮中での必需品だけに、さまざまな取り扱いの作法があった。

持ち方
現代人が扇子を持つ時ついつい要を持ってしまうが、檜扇は要を持たないのが正式な作法である。
広げて持つときは要の少し上を持ち、閉じてからは片手で中心より根元よりの部分を軽く持ち、もう一方の手を下から先の部分に添える。

平安時代の持ち方を正式に記す資料はないが、絵巻ではたいてい片手で要に近いところを持って胸から顔に近い高さにかざしている。
手は右手左手両例が認められる。
男子の檜扇は閉じて右手に持つか、懐中する場合が多いようである。

近世では、女子の檜扇は開いて顔を隠すのに用いて大翳(おおかざし)と称し、男の子供用の横目扇(板目の扇)は閉じて6色の蜷飾り(飾り紐)を巻いて用いるのが決まりであった。
近代は女子も閉じて、蜷飾りを巻いて、上述のようなもち方をすることになった。
男子は右手に持ち、先を少し下に下げるか懐中し、座るときは座前に置く場合もあった。
横目扇も右手に持つ。

年齢
現代は成人女性のもつ柾目引きの檜扇ばかり見かけるが、平安時代は板目引きの、小振りで花鳥を描いた子供用の檜扇や無地の若年男性用・老人用の扇も存在した。
基本的に高位の貴族は14~15歳で成人し、40歳以上で老人とみなされる。
高位になればなるほど実年齢より大人っぽいものを使った。

性別
男女共に子供用は、板目引きで色糸綴じの金泥などで絵が描かれたもの。
女性用は柾目引きの絵がある色糸綴じのもの、男性用は柾目引きの白木白糸綴じのもの、老人用は男女共に、子供用と同じ板目引きで白糸綴じ絵を描かないものを用いる。

出産時
親王・内親王の出産が迫ると、妃に仕える女房達は髪上げして白ずくめの衣装を着る。
その際、檜扇も白銅の飾り金具を使い白糸で綴った物を使う。
扇面の絵も普段の紅・金泥・緑青・藍などの派手なものでなく、胡粉と銀泥のみの絵である。

近世の檜扇

成人男子
白木扇
通常は25橋からなり、檜柾目材によって作られる。
綴じ糸は白を1本使用。
五位以上は親骨にかざりをつける。
これは元来白い綴じ糸の余りを花などのかたちにして貼ったものともいうが、近世では白平絹(羽二重なども可)に白糸で家紋の形を縫った。
綴じ糸による「一筆がき」風にはできないが、糸による線で紋を描くため、極力糸を生地にくぐらせないで留めていく「置紋」の方法を使う。
なお若い人はこの家紋の周辺に唐草を貼り付け、長飾りと称した。
老人は一切置紋を使用しない。
六位以下は紋は貼らない。
天皇は菊花紋章を置紋にして40歳頃未満は長飾りをつける。
以後は菊のみ。
こうしたしきたりの根幹は鎌倉時代後期には成立していた。
鎌倉時代にはさらに略式の23橋の扇もあった。
古い遺品は京都大学に儀式次第を墨書した中世のものが残る。

近代は天皇は年齢にかかわらず長飾りつきの菊の置紋、皇族は菊のみ、即位での臣下のうち、奏任官・高等官以上は五七桐、伊勢神宮では飛鶴が用いられた。
年齢による差はない。

要は原則として紙縒りによる元結留。
四つ目に結ぶ。
現在では鋲留めが多いが、近世では僧侶の扇などに例がある。

なお特例として近世の天皇の神事用の扇がある。
白木25橋で白蜷飾りがつき、銀の蝶鳥金具を要につける。
置紋や糸花はない。
閉じて蜷飾りを巻いて懐中する(旧儀御服記ほか)。
また宗派により形式の違う檜扇が使用された。
白木で総角(揚巻)結びの飾りのついたもの、鋲を要に使うものなどが多い。

蘇芳扇
檜柾目材。
通常25橋。
天皇や大臣などの高官に例がある。
綴じ糸は白は普通。
元結留も白。
白い置紋を貼る(老人は貼らない)。
基本的には白木扇同様であるが、檜を蘇芳という染料で深紅に染める。
これも中世には用いられた。
また紫扇や赤色=蘇芳扇は即位のとき礼服に懐中して用いられたようである。
現在は天皇が御引直衣に使用するだけである。
置紋は菊の長飾り。
このほか老人が香染(丁子による茶色)の扇を使用するなどの特例が中世にあり、その一部は近世にも復古的に行われたかと思われる。

幼年男子

横目扇
杉板目(横目)材。
23橋~25橋。
近世の山科流では25橋で、スギの糸柾(木目の濃い柾目)がさかんに使用された。
また親骨のみ板目であとは柾目の例もあるが、これらは畢竟板目が割れやすいからである。
板目は木目の美しさを楽しむ点で装飾的であり、檜より黒味のつよい杉が好まれた理由もここにある。
したがって横目扇は女子の扇のように白い下地を塗ることはない。

横目扇はまた泥絵扇ともいうように彩色画をともなった。
近世の山科流は極彩色で縁取りした金の源氏雲を描き(金は泥絵具・箔ともに例がある。山科流の女子用は雲に金銀を用いるが、横目扇は金一色)、飛鶴2羽と大松を描き、松の根元の丘には笹を描き、左に群青色の水を配し、水には銀泥で観世水(波)を描き、なかに緑色の亀を描く。
これは定番で、山科流では松のおおよその枝ぶり、ツルの向きまで固定していた。
高倉流は自由度が高く、松にツバキ、松や梅や鶴などの祝いの図柄を適宜按配する。
また両流の拘束によらないかと思われる中間形式の違例も多い。
裏面はやはり源氏雲を描き、5色程度の線描で蝶鳥を密に描く。

要の金具は表に蝶、裏に鳥を配することが多いが、一方が梅の例も多い。
これらの全てが後補と断定できない以上、こうした例もあったかもしれない。
金銅金具である。
要を木釘で固定した後、鋲で要に刺してあることが多く、比較的簡単に抜けてしまうこともある。
綴じ糸は紅と黄の2色の糸で綴じる。

蜷飾りは、山科流は紅・緑・黄・紫・白・薄紅の6色。
蜷結びを二段作り、一段目と二段目の間でとなりあう紐同士をひっかけてばらつかないようにする。
これらの紐は6本を並べて先を下に折って、綴じ糸で強く巻き、結んで固定する。
金具などでとめるのは正しくない。
山科流以外では薄紅を除く5色ということもあり、5色もしくは6色を各2本使うものも多い。
その中には高倉家の特色を強く示すものもあるので、高倉流では二本ずつという方法もあったかもしれない。
まれに蜷結びの間に総角結びを作るものもみかけるほか、蜷結びにはせずに梅花形の花結びを作るだけのものもある。
このほかにもいろいろなバリエーションがあり、山科流の固定性とは対照的である。
山科流横目扇の仕様は『篋底秘記』にくわしく、山科流の典型的な遺品は御物として伝存する。

糸花は、山科流では梅と松。
梅は紅白薄紅の三色で、花とつぼみそれぞれの数にも決まりがあるという徹底振りであった。
糸花はよりのない生糸製。
松は生絹を二つ折りの両端を見せたボンボン。
梅は二つ折りの輪のほうを使い、梅のがくの部分以外一切絹の織地は用いない。
梅には黄色いしべがあった。
黄紙を細く切って作るようである。
枝は針金で、よりのない生糸を巻いて表面を隠す。
枝の下端は輪になっており、これを赤い絹のより糸で、蜷飾りの上端の下に向けて折って綴じ糸でしばられたところでできる輪状の部分の中に通す。
赤い糸は少し余裕を持たせ、糸花がぶらぶら揺れるのが良いとされた。
高倉流では、宮中に納める場合など、普通は松と橘のみだが(旧儀御服記)、徳川家祥(のちの家定)におさめたものは女子用のように松梅橘の三種とした(有職文化研究所蔵調進控)。
糸花は松梅橘のほかはあまりみかけない。

横目扇は院政期の文献には見られる。
糸花は、横目扇でなく白地の扇ながら幼い皇太子の檜扇に松の飾りがあるという承久2年(1220年)の記録(玉蘂)があり、鎌倉時代中期頃より文献で蜷飾りが確認できる(装束式目抄)。
中世には横目扇の基本的要素は出揃う。
絵も山科流のような極端な固定は近世以後だが、古くから祝い物が用いられたから、松や鶴は古い。
また松と椿は後嵯峨天皇即位にまつわる伝承から祝いのものとされ、躬仁親王(称光天皇)元服(國學院所蔵高倉家文書)や足利義持元服の記録に見られる。
近世も徳川家祥元服ほかしばしば使用された例がある(有職文化研究所蔵調進控見本)。
古い遺品は京都大学に壬生家伝来の鎌倉時代前期のものがある。
木目を波に見立て、小さな松の小島を描いて緑青を塗り、上空に鶴が群れ飛ぶという図で、源氏雲はない。
裏は群青と緑青で蝶鳥を描く。
こちらも無論源氏雲はない。

近世の横目扇は天皇・親王・公家の子息のほか、小舎人など童形の召具(従者)も使用した(近世の賀茂祭勅使の装束資料などからしられる)。
公家の元服に必須であったから遺品も多く、時に粗製品をみかけるのは召具所用品なのかもしれない。
また浄土真宗系の寺院では公家の娘を内室に持つ寺主の子息が使用したこともあった。
骨董オークションでも近世の横目扇らしいものはよく売りに出る。
また冷泉家の遺品は写真でいろいろな本に掲載される。
もちろん御物にもいくつかの遺品がある。

なお、皇太子が用いてならない道理はないはずだが、実際には皇太子は多く後述の赤色扇もしくは胡粉地扇を使用した。

赤色扇
天皇と皇太子が使用する。
蘇芳染め檜25橋。
金泥で表に松鶴を描き、裏に蝶鳥を描く。
蜷飾りは蘇芳もしくは紫1色、6色などの例がある。
糸花は松のみ。
金具は金銅の蝶鳥。
近世の遺品は御物として伝存する(御服御目録)。

近代では裕仁親王(昭和天皇)立太子に際し、蜷飾り6色の赤色扇が調進されたが、戦後の明仁親王(今上天皇)立太子以後は例がないらしい。

胡粉地扇
皇太子の所用。
胡粉(白色顔料)塗り25橋。
絵は横目扇の表と同じ源氏雲と松鶴水亀笹の絵を極彩色で描く。
なお裏面も同じ絵を描いたとされ、蝶鳥ではなかったらしい。
蜷飾りは6色。
糸花は松。
金具は金銅の蝶鳥。
近世の遺品は御物として伝存する(御服御目録)。

承久年間に東宮(のちの仲恭天皇)が着袴に際して使用したという。
近世のものはその記録による再興である。
古い遺品は見当たらないが、厳島神社の小型檜扇は胡粉地のうえ表裏ともほぼ同じ絵であるなど記録によくかなうことが注目され、これと同様の品だった可能性が高い。
なお、近年は女子皇族も横目扇を使用するようであるが、和宮は着袴の儀に38橋の扇を使用しており、おそらく横目扇ではなかったであろう。
また行幸に男装で供奉する「あづまわらは」も幕末の例では胡粉地の28橋の扇を用いているので、近世には女子は横目扇を用いないことが多かったのではないかと思う。

女子の桧扇

大翳(おおかざし)

桧材38橋もしくは39橋。
胡粉塗りで雲母を引いた地に金銀二色の源氏雲と極彩色の絵を描く。

橋数は、皇族など高貴な女性は39橋で、女官は38橋が普通である。
江戸時代には重儀に際して女官が手に開き持って顔を隠したのでこの名がある。
近代以後は開かずに蜷飾で巻いて用いるが、これは元来横目扇の扱い方であった(新近問答)。

図柄は女帝(後桜町天皇など)は桐鳳凰で(旧儀御服記)、皇后も使用例がある(東福門院所用品―霊鑑寺蔵・英照皇太后所用品―御物)。
山科流では一般に紅梅と竹を右に寄せて描き、左側に流水を配する図柄が多い(篋底秘記)。
この図柄は皇后所用品にも例がある(英照皇太后所用品―御物)。
山科流以外では様々な花の折枝(水戸斉昭夫人有栖川宮吉子女王所用品―徳川博物館蔵)や松に鶴(毛利家伝来品・有栖川織仁親王女貞操院所用品)などがある。

綴じ糸は通常紅白二色で、蜷飾の糸を綴じ糸でしばる。
その詳細は横目扇の規定に同じで、六色各1本が多いが、同色各2本の遺品もしばしばみられる。

糸花は、山科流は松と梅で、横目扇に等しく、高倉流では松梅橘の三種とする。

要も金銅の蝶鳥とすることは横目扇に等しい。

現代の檜扇
現代は皇族といえども、普段は洋装で装束を身に着ける機会は大きな儀式に限られている。
以下はその例。

皇后
即位の礼では、表に金箔押しの雲に桐と鳳凰の絵、裏は同じく金箔の雲に鳥や蝶の舞う絵。
立太子などの重儀にも使用。

皇太子妃
婚礼の儀と即位礼に使用。
即位の礼の皇后と同じ。

皇族妃
婚礼の儀と即位礼に使用。
松に群青と朱の二羽の尾長鳥(尾の長い美しい鳥。ニワトリではない)の絵を描くほかは皇太子妃と同じ。

なおこれらの絵柄は大正天皇の即位礼に際して定められたもの。
ただし婚礼には松梅鶴なども使用した。

なお皇后美智子が結婚・即位・立太子で、徳仁親王妃雅子が結婚で、文仁親王妃紀子が結婚並びに即位の礼で、夫々使用している写真をフォトグラフィック関連の書籍及び雑誌等で目にすることができる。
また紀宮清子内親王(現黒田清子)並びに敬宮愛子内親王が着袴の儀で横目扇を使用している写真が公開されている。

[English Translation]