洞院佶子 (TOIN Kitsushi)

洞院 佶子(とういん きつし、藤原 佶子(ふじわら の きつし)、皇后 佶子、寛元3年(1245年) - 文永9年8月9日 (旧暦)(1272年9月2日))は、鎌倉時代の亀山天皇の皇后で、後宇多天皇の生母。
女院号は京極院(きょうごくいん)。

系譜

左大臣洞院実雄の女。
生母は法印徳大寺公審の女、徳大寺栄子。
異母妹に伏見天皇生母の洞院いん子(玄輝門院)、花園天皇生母の洞院季子(顕親門院)がいる。

略歴

『増鏡』によると佶子は大変容姿が優れており、同母兄の権中納言洞院公宗に恋慕されるほどであったという。
文応元年(1260年)11月、大嘗祭の際に亀山天皇の女御代を務め、翌12月に入内。
女御宣下を受ける。

翌文応2年2月(1261年3月)、中宮に冊立されるが、半年後の弘長元年8月(1261年9月)、女御西園寺嬉子が立后されるのを受け、皇后となる。
しかし嬉子はこのときまだ10歳と幼く、天皇の寵愛も薄かったと言われているのに対し、佶子は天皇より4歳年上であるにもかかわらず寵愛が深かった。
この後、天皇との間には二男一女を儲ける。

しかし、文永9年8月9日(1272年9月2日)、佶子は28歳で崩御。
同日院号宣下を受け、京極院と称された。
陵所は京都市右京区の蓮華峯寺陵。
のちに佶子所生の後宇多天皇も同所に葬られた。

所生の皇子女

第一皇女:けん子内親王(1262年 - 1264年)
第一皇子:知仁親王(1265年 - 1267年)
第二皇子:世仁親王(後宇多天皇、1267年 - 1324年)

[English Translation]