淳仁天皇 (Emperor Junnin)

淳仁天皇(じゅんにんてんのう、天平5年(733年) - 天平神護元年10月23日 (旧暦)(765年11月10日))は、日本の第47代天皇(在位:天平宝字2年8月1日 (旧暦)(758年9月7日) - 天平宝字8年10月9日 (旧暦)(764年11月6日))。
古文書では廃帝(はいたい)または淡路廃帝(あわじはいたい)と呼ばれる。
諱は大炊(おおい)であり、践祚前は大炊王(おおいおう)と称された。

経歴
人物
天武天皇の皇子・舎人親王の七男として誕生する。
母は当麻山背。
だが、3歳で父が没したこともあって、天皇の孫でありながら官位を受けることもなく、まして自らの存在が注目されることもなかった。

757年(天平宝字元年)、聖武天皇の遺言によって立太子した道祖王に代わって、未婚の女帝・孝謙天皇により立太子された。
この立太子は、藤原仲麻呂(後に恵美押勝に改名)の強い推挙によるものだった。
大炊王は仲麻呂の子・藤原真従(まより)の未亡人である粟田諸姉を妻とし、仲麻呂の私邸に住むなど、仲麻呂と強い関係を持っていた。

践祚
758年(天平宝字2年)に孝謙天皇から譲位を受け践祚した。

だが皇位に就いたのは良かったが、政治の実権はほとんど仲麻呂が握り、また仲麻呂の後見人である光明皇后(藤原光明子)が強い影響力を持っていた。
政策は、唐で安史の乱が発生した為、九州の警備を強化したが、仲麻呂が推進した新羅討伐計画を許可し、官位も唐風の名称に改めるなどした。

孝謙上皇とは、彼女が道鏡を重用しだしたことから不和となっていく。
そして、淳仁天皇が孝謙上皇と道鏡との関係について諫言したことを契機にして両者の関係は対立するようになっていく。
762年(天平宝字6年)、孝謙上皇は再び天皇大権を掌握することを目的に、「今の帝は常の祀りと小事を行え、国家の大事と賞罰は朕が行う」と宣告した。
この宣告によって、政治権力が孝謙上皇のもとに移ったとする理解と、御璽を保持しつづけていた淳仁天皇が依然と権能を発揮していたとする見解がある。
まだ研究者間でも確定されていない。

追放
天平宝字8年(764年)藤原仲麻呂の乱が起きた後も、最大の後見人であるはずの仲麻呂と行動をともにすることは無かった。
その原因については既に上皇側に拘束されていたからだとも、仲麻呂を見限って上皇側との和解を探っていたからだとも言われている。
(仲麻呂は天皇を連れ出せなかった為、やむなく塩焼王を新天皇に擁立することを企てた。)

乱の翌月、上皇の軍によって居住していた中宮院を包囲される。
そこで上皇より「仲麻呂と関係が深かったこと」を理由に廃位を宣告され、親王の待遇をもって淡路国に流される。
だが、淡路の淳仁天皇のもとに通う官人らも多くおり、また都でも天皇の復帰をはかる勢力もあった。
このような政治動向に危機感をもった上皇は、翌天平神護元年(765年)2月に現地の国守である佐伯助らに警戒の強化を命じている。
この年の10月、逃亡を図るが捕まり、翌日に院中で亡くなった。
公式には病死と伝えられているが、実際は逃亡の時に危害を加えられた結果であった可能性が高い。

御陵
淳仁天皇の御陵は淡路国三原郡(現在の兵庫県南あわじ市の天王森丘とされる)に造営された。

宝亀3年(772年)に、光仁天皇は僧侶60人を派遣し、斎を設けて、その魂を鎮めた。

宝亀9年(778年)に山陵扱いとされた。

しかし践祚していながら、孝謙天皇の意向によって長らく天皇のひとりと認められず、廃帝または淡路廃帝と呼ばれていた。

追号
1870年(明治3年)に、弘文天皇(大友皇子)、仲恭天皇と共に、明治天皇から「淳仁天皇」と追号を賜られた。

1873年には、同様に配流先で歿した崇徳天皇を祀る白峯神宮に合祀された。

[English Translation]