源能有 (MINAMOTO no Yoshiari)

源 能有(みなもと の よしあり、承和12年(845年)-寛平9年6月8日(897年7月11日))は平安時代の貴族、政治家。
文徳天皇の皇子。
生母は伴氏で第一皇子であったと伝わる。
号は近院大臣。

同じ文徳天皇の皇子である惟仁親王(清和天皇)より年長でありながら、生母が藤原氏でなかったこともあり、皇嗣からは早い段階で除外されていたらしい。
第一親等の皇族でありながらも、当時の慣例に倣って源氏姓を賜り、臣籍降下。
能有の兄弟の多くがこれと同様の道をたどり、その子孫は後世文徳源氏と呼ばれることになる。

能有は朝廷の儀礼や政務に通じた有能な人物として知られ、貞観4年(862年)に従四位に初叙任されると、以後徐々に中央官界において頭角を顕し、弟の清和天皇、それに続く陽成天皇の治世をよく輔けた。
その能力は藤原基経からも評価されてその娘を娶る。
その後、正三位左衛門督、左近衛大将、大蔵卿、検非違使別当、民部卿、按察使を歴任する。
更に宇多天皇の信任が厚く、符宣上卿(太政官符を発給する際の上卿)として28回も名を連ね、『日本三代実録』編纂開始時には源融・藤原良世と先任の上卿2人がいるにも関わらず撰国史所総裁を務めていること、寛平7年(895年)には位階昇進の人事草案を提出する擬階奏を行っている(いずれも摂関もしくは一上が務める慣例であった)ことから、藤原基経没後は能有が事実上の政権担当者として寛平の治を押し進めたと考えられている。
この年の暮れには「五畿内諸国別当」に任じられ、翌寛平8年(896年)には平季長を山城国問民苦使に任じて、その報告を元にして院宮王臣家による土地の不法拡大を禁じる太政官符などの農民保護政策を打ち出している。
この年には右大臣左兵衛督加賀美濃権守の位に昇るが、これを極官として、その翌年に病を得て死去。
享年53。
寛平9年6月16日に贈正一位。

また菅原道真と親しく、道真の詩文集『菅家文章』には能有に頼まれて自宅の竹を能有邸に移植した時の漢詩や能有追悼の漢詩が収録されている。
また、宇多天皇も寛平御遺誡の中で右大臣(能有)の失った衝撃について触れている。

能有の男系の子孫には、後代保元の乱で活躍した源季実などが出ている。
一方、女系に目を転じると、娘の源昭子は藤原忠平の妻として藤原師輔らを産み、同じく源柄子は貞純親王の妻となって源経基を産んでいる。
即ち、師輔以降の摂関家と、経基以降の清和源氏という二つの大族に、その血統を伝えたことになる。

[English Translation]