用明天皇 (Emperor Yomei)

用明天皇(ようめいてんのう、不明欽明天皇元年(540年?) - 用明天皇2年4月9日 (旧暦)(587年5月21日))は、第31代天皇(在位:敏達天皇14年9月5日 (旧暦)(585年10月3日) - 用明天皇2年4月9日(587年5月21日))。

弟(おと)、橘の豊日命、池邊宮に坐しまして、天の下治らしめすこと、三歳(みとせ)なりき。
この天皇、稲目(いなめ)の大臣の女、意富藝多志比売(おほぎたしひめ)を娶して、生ませる御子、多米(ため)王。
(分注、一柱。)
また庶妹開人穴部(ままいもはしひとのあなほべ)王を娶して、生みませる御子、上宮(うえつみや)の厩戸豊聡耳(うまやどのとよとみみ)命。
(この後、四人の御子が生まれ、また比売(ひめ)を娶り、二人の御子が生まれると記す。)
この天皇。
(分注、丁未の年の四月十五日に崩りましき。)
御陵は石寸(いわれ)の掖上(いけのうえ)にありしを、後に科長(しなが)の中の陵に遷(うつ)しき。
(『古事記』)
池邊宮は、奈良県磯城郡。
上宮の厩戸豊聡耳命は、聖徳太子。

和風謚号・異名

『古事記』では、橘豊日命(たちばなのとよひのみこと)という。

『日本書紀』では、橘豊日天皇(たちばなのとよひのすめらみこと)という。

大兄皇子、池辺皇子とも称する。

なお、一部の参考書ならびに歴史書では、即位前の用明天皇を「橘豊日皇子(たちばなのとよひのみこ)」と表記しているものがある。
が、これは和風謚号であるため、本来なら、誤表記となる。

系譜

欽明天皇の第四皇子。
母は蘇我稲目の娘の蘇我堅塩媛。
聖徳太子の父。

飛鳥時代(27代から37代)

皇居

都は磐余池辺雙槻宮(いわれのいけのへのなみつきのみや。
現在の奈良県桜井市阿部、あるいは同市池之内か)。

大連・大臣

連(おおむらじ)と大臣(おおおみ)は、物部守屋と蘇我馬子がそのまま引き継いだ。

即位

前代の敏達天皇が亡くなると即位した。
敏達天皇とは違い、用明天皇は蘇我稲目の孫と言う事もあり、崇仏派であり仏法を重んじた。

一方、危機感を持った廃仏派の筆頭である物部守屋は、欽明天皇の息子の一人である穴穂部皇子と通じていた。
しかしながら、用明天皇は天然痘のため、在位二年あまりの587年4月9日(古事記では4月15日 (旧暦))に死去した。
享年には諸説あり、48(欽明天皇元年(540年)出生説)とも69(継体天皇13年(519年)出生説)とも伝えられている。

陵墓

磐余池上陵(いわれのいけがみのみささぎ)に葬られたが後に河内磯長原陵(現・春日向山古墳(大阪府南河内郡太子町大字春日))に改葬された。

『新唐書』の目多利思比孤

『隋書』卷81 列傳第46 東夷にある俀王「姓阿毎 字多利思比孤 號阿輩雞彌」は、『新唐書』東夷伝日本伝に「用明 亦曰目多利思比孤 直隋開皇末 始與中國通」とあり用明天皇が多利思比孤であると記述している。

その他

聖徳太子による法隆寺の建立は、元々用明天皇の病気平癒のために天皇の願いを受けて太子が寺の建立を誓ったからだという説がある。
また、聖徳太子の父ということで後世様々な説話に引用され、江戸時代には近松門左衛門が「用明天皇職人鑑」という浄瑠璃作品を発表している。

1870年(明治3年)に仲恭天皇と弘文天皇が追贈されるまで、在位期間が最も短い天皇であった。

[English Translation]