糠手姫皇女 (Nukadehime no himemiko)

糠手姫皇女(ぬかでひめのひめみこ、生年不詳 - 天智天皇3年(664年)6月)は古墳時代末期から飛鳥時代にかけての皇族。
『日本書紀』では他に田村皇女、『古事記』では宝王、糠代比売王と表記されている。
押坂彦人大兄皇子の妃。
舒明天皇の母。
父は第30代敏達天皇、母は伊勢大鹿首小熊の女。
同母姉妹には太姫皇女がいる。

概要
正確な年は不明だが、590年前後頃に異母兄の押坂彦人大兄皇子と結婚。
彼は敏達天皇の嫡男だった。
しかし、蘇我氏が勢威を振るっていた中、母親がその血を引いていなかった為だったのか、王位につけないまま若い内に死別する。
この間593年(推古天皇元年)頃に後の舒明天皇こと田村皇子を儲ける。
その後中津王・多良王を儲ける。

『日本書紀』によれば、時の推古天皇(推古天皇)には彼女にとっていとこ(従姉弟?)にあたる厩戸皇子(聖徳太子)が皇太子・摂政として天皇を助けていた。
そのため、長男の田村皇子にも王位継承の可能性はないかに思われていた。
けれども、蘇我馬子の娘、法提郎女と結婚し、その間に初孫と思われる古人大兄皇子を儲けた。
これにより、結果的に先に亡くなった厩戸皇子より長生きした大王からは後継者に明確に指定はされなかったものの、蘇我氏の力を背景に629年(舒明天皇元年)に即位した。
この結果、彼女は大王の母となった。
しかし、641年(舒明天皇13年)に田村大王は彼女に先立って崩御してしまう。
その後はまだ山背大兄王や後の天智天皇こと異母弟の天智天皇等競争相手がいた。
その為か、息子の嫁で、義理の孫・姪孫でもある皇后・皇極天皇(押坂彦人大兄皇子の孫娘)が王位(皇極天皇)につく。

しかし、645年(皇極天皇4年)に乙巳の変で蘇我蝦夷・蘇我入鹿親子の宗本家が滅ぼされる。
すると、彼らに擁立されていた古人大兄皇子がクーデターの首謀者だった中大兄皇子・藤原鎌足に抹殺される。
こうして、彼女は孫同士の殺し合いを見る悲哀を味わう。
更に、654年(白雉4年)にはやはり姪孫にあたる軽大王(孝徳天皇)が崩御。
658年(皇極天皇4年)には曾甥孫にあたる有間皇子が処刑、曾孫である建皇子が早世。
661年(斉明天皇7年)には重祚していた宝大王(斉明天皇)が崩御。
このように、多くの近親者に先立たれる。
自身も白村江の戦いの敗戦直後、孫の葛城皇子(後の天智天皇)の正式な即位を見ないまま、664年に薨去した。
尚、その時既に、玄孫にあたる大来皇女・草壁皇子・大津皇子が誕生していた。
享年は不明。
(彼女にとって)長男田村皇子の有力生年から、彼女自身には伝わる事績は多いとはいえないが、崇仏や王位継承などを巡って対立した蘇我・物部両氏の二頭体制から、厩戸皇子が活躍したとされている推古朝、彼亡き後深まった蘇我氏の専横、大化の改新、対外戦争等と数多くの事件を見ながら当時としてはかなりの長寿を全うしたと思われる。
既に実質上の大王だった葛城皇子の祖母であり、飛鳥嶋宮に住んだことから没後には嶋皇祖母命と称された。

御名

なお、彼女は前述どおり田村皇女との別名がある。
息子舒明天皇の御名田村は彼女のその別名をそのまま継承したものである。
また、皇極・斉明天皇の宝皇女もその可能性が高いと平林章仁氏(大和高田市片塩中学校教諭)等は指摘している。
宝(財)の名は古代においては反正天皇や仁賢天皇の皇女にその名が見え、また厩戸皇子の子にも財皇子がいたなど、珍しい名前ではない。
これは、皇子女の養育に伴造直属の部下が担ったことから来ている。

[English Translation]