葛野王 (Kado no okimi)
葛野王(かどののおおきみ、天智天皇8年(669年)頃?-慶雲2年(705年)12月)は大友皇子(弘文天皇)の第一皇子。
母は十市皇女。
子に池辺王・藤並王、孫には淡海三船がいる。
文に長けていたと伝えられているが、壬申の乱で敗れた弘文天皇の皇子であるため、朝廷内でも当初は評判が悪かったようである。
『懐風藻』によると696年(持統10年)の高市皇子の死去の後、持統天皇が数ある天武天皇の皇子達を退け孫の軽皇子(後の文武天皇)を皇太子にしようとした際、それに与し、日本では古来から直系相続が行われており、兄弟相続は争いのもとだとして天皇位の直系相続を主張した。
(これについては藤原不比等が入れ知恵したのだとする意見もある。)
実際には古来から兄弟間での天皇位の相続は一般的であり、それについて弓削皇子が葛野王に問いかけようとした矢先、葛野王は弓削皇子を一喝。
弓削皇子も持統天皇の意向を結局は呑み、軽皇子を皇太子とすることが決定した。
葛野王は後に正四位の位を授けられ、式部卿の地位に任ぜられた。
この時年齢37歳とあるが、薨去時の年齢が誤って伝えられたとする考えが一般的である。
父弘文天皇は母方の祖父、天武天皇との皇位争いに敗れて自殺、母十市皇女も早世(自殺・暗殺説もある。)
自身も複雑な血統の中、それなりの出世は果たすも、結局早世してしまった。
子孫も孫の三船以降は天武系から天智系への皇統移行とほぼ同時に歴史に埋もれてしまう事となる。