誉津別命 (Homutsuwake no mikoto)
誉津別命(ほむつわけのみこと、生没年未詳)は、記紀における皇族(王族)。
『日本書紀』では誉津別命、『古事記』では本牟都和気命、本牟智和気命。
『尾張国風土記』逸文に品津別皇子。
垂仁天皇の第一皇子。
母は皇后の狭穂姫命(さほひめのみこと。彦坐王の女)。
出生
名の由来を記では稲城の焼かれる火中で生まれたので、母により本牟智和気御子と名づけられたとする。
母の狭穂姫命はその兄狭穂彦王の興した叛乱(狭穂姫命狭穂毘古の叛乱)の際に自殺。
紀では叛乱の前に生まれていたとするが、火中から救い出されたのは記に同じ。
火中出産はコノハナノサクヤビメのうけいに繋がるとの指摘がある。
誉津別皇子は父天皇に大変鍾愛されたが、長じてひげが胸先に達しても言葉を発することがなく、特に『日本書紀』では赤子のように泣いてばかりであったという。
言葉を発するまで
『日本書紀』によると皇子はある日、鵠(くぐい、今のハクチョウ)が渡るさまを見て「是何物ぞ」と初めて言葉を発した。
天皇は喜び、その鵠を捕まえることを命じる。
湯河板挙(鳥取造の祖)が出雲国(一書に但馬国)で捕まえて献上し、鵠を遊び相手にすると、誉津別命は言葉を発するようになった。
ここに鳥取部、鳥飼部、誉津部を設けたとある。
一方『古事記』では、誉津別皇子についてより詳しい伝承が述べられている。
天皇は尾張の国の二股に分かれた杉で二股船を作り、それを運んできて、市師池、軽池に浮かべて、皇子とともに戯れた。
あるとき皇子は天を往く鵠を見て何かを言おうとしたので、天皇はそれを見て鵠を捕らえるように命じた。
鵠は紀伊国、播磨国、因幡国、丹波国、但馬、近江国、美濃国、尾張国、信濃国、越国を飛んだ末に捕らえられた。
しかし皇子は鵠を得てもまだ物言わなかった。
ある晩、天皇の夢に何者かが現れて「我が宮を天皇の宮のごとく造り直したなら、皇子はしゃべれるようになるだろう」と述べた。
そこで天皇は太占で夢に現れたのが何者であるか占わせると、言語(物言わぬ)は出雲大神の祟りとわかった。
天皇は皇子を曙立王、菟上王とともに出雲に遣わし、大神を拝させると皇子はしゃべれるようになったという。
その帰り、皇子は肥長比売と婚姻したが、垣間見ると肥長比売が蛇体であったため、畏れて逃げた。
すると肥長比売は海原を照らしながら追いかけてきたので、皇子はますます畏れて、船を山に引き上げて大和に逃げ帰った。
天皇は皇子が話せるようになったことを知って喜び、菟上王を出雲に返して大神の宮を造らせた。
また鳥取部、鳥甘部、品遅部、大湯坐、若湯坐を設けたという。
さらに、『釈日本紀』に引く『尾張国風土記』逸文では阿麻乃彌加都比女の祟りとする。
それによると誉津別皇子は7歳になっても話すことができなかったが、皇后の夢に多具の国の神・阿麻乃彌加都比売が現れて、「自分にはまだ祝(はふり)がいないので、自分を祭祀してくれる者を与えてくれたなら、皇子は話せるようになり、寿命も延びるであろう」と言った。
そこで天皇は日置部らの祖・建岡君にこの神がどこにいるかを占わせた。
建岡君は美濃国の花鹿山に行き、サカキを折って鬘(髪飾り)を作り、うけいして「この鬘の落ちたところに神はいらっしゃるだろう」と言った。
すると鬘は空を飛んで尾張国丹羽郡に落ちたので、建岡君は同地に社を建て、また同地も阿豆良(あづら)が訛って阿豆良(あづら)の里と呼ばれるようになったとある。
多具の国とは、出雲国の多久川流域とされ、また阿麻乃彌加都比売は『出雲国風土記』秋鹿郡伊農郷にみえる天ミカ津日女(もしくは楯縫郡神名樋山の項の天御梶日女)と同神とされる。
これらの話は神話研究では、記紀でのスサノオが大人になっても泣いてばかりであったことや、また『出雲国風土記』でのアヂスキタカヒコネが口が利けなかったという神話と比較されている。