邦良親王 (Imperial Prince Kuniyoshi)
邦良親王(くによししんのう/くにながしんのう、正安2年(1300年) - 正中3年3月20日(1326年4月23日))は、大覚寺統の後二条天皇の第一皇子。
叔父である後醍醐天皇の皇太子となるが即位することなく死去する。
木寺宮の祖となった。
名前の読みが二種類あることについては、後醍醐天皇皇子の読みを参照。
親王が9歳のとき、父の後二条天皇が崩御する。
本来ならば次の花園天皇(持明院統)の皇太子に立つべきであったが、幼少の親王を皇太子にする事には不安もあった。
そこで祖父である後宇多天皇の要請を受けた鎌倉幕府は後二条天皇の在位が大覚寺統・持明院統間の皇位移譲約束である10年より短い事を配慮して、花園天皇の後に大覚寺統から中継ぎの天皇を立てることを容認し、後二条天皇の弟である尊治親王(後の後醍醐天皇)を皇太子にする事になった。
10年後、約束通り花園天皇から後醍醐天皇に皇位が譲られ、邦良親王が立太子された。
だが、後醍醐天皇は父である後宇多上皇の「皇位は後二条天皇の子孫に継承させて、後醍醐天皇の子孫には相続させない」という方針に反発する。
天皇は上皇の院政を停止して、上皇に退位を強要される事態を阻止し、皇位継承に干渉する鎌倉幕府の打倒を計画した。
正中元年(1324年)、後宇多法皇の死去の直後に後醍醐天皇の鎌倉幕府打倒計画が発覚する(正中の変)。
これに驚いた故法皇や親王の側近達は鎌倉幕府に後醍醐天皇の退位工作を要請する一方、持明院統にも次期皇太子を約束して協力を求めた。
だが、天皇は退位を拒絶し続けて事態が膠着している最中、突然邦良親王が27歳の若さで急死してしまうのである。
親王の長男である康仁親王(1320年-1355年)は後醍醐天皇が再度の倒幕計画に失敗(元弘の変)して流罪となり、持明院統の光厳天皇が即位すると大覚寺統の嫡流として皇太子に立てられたものの、翌年の幕府滅亡と後醍醐天皇の復帰とともに光厳天皇ともども廃位されている。