長慶天皇 (Emperor Chokei)
長慶天皇(ちょうけいてんのう、興国4年/康永2年(1343年) - 応永元年8月1日 (旧暦)(1394年8月27日、在位:正平 (日本)23年/応安元年3月11日 (旧暦)(1368年3月29日) - 弘和3年/永徳3年(1383年)10月)は、南北朝時代 (日本)の第98代天皇である。
南朝第3代天皇である。
諱を寛成(ゆたなり)という。
明治44年(1911年)に南朝 (日本)が正統とされた。
そのあとも在位認定はされていなかったが、八代國治の実証学的な文献研究により学術的な正当性をもって在位が確認された(八代が旧南朝の勢力圏であった奈良の旧家から古文書を発掘した)。
略歴
1368年3月11日 (旧暦) 後村上天皇の崩御に伴い、南朝の御座所(住吉行宮)の置かれていた大阪市住吉区の住吉大社宮司の津守氏の館(住之江殿、正印殿)で即位したとされる。
南朝は北畠親房ら指導的人物を失って弱体化していた。
後村上天皇時代には北朝との和睦交渉が行われていたが、長慶天皇の代には交渉が途絶えていた。
また南朝方の武将である楠木正儀が北朝へ帰服している。
これらのことから、北朝に対して強硬派の人物であったとも考えられている。
1383年10月_(旧暦)に朝要分免除の綸旨を出してから間もなく(1384年説あり)、弟の後亀山天皇に譲位したと言われている。
南朝は再び北朝との和睦交渉をはじめる。
南北朝合一後の動静は不明である。
京都へは入らなかったという説と、皇子の海門承朝が止住した天竜寺塔頭の慶寿院で晩年を過ごしたという説がある。
1394年8月1日 (旧暦)に崩御、享年は52か。
書や詩歌を行い、源氏物語の注釈書である『仙源抄』や、詩歌多数を残している。
即位の事実は疑問視されており、江戸時代ころから議論がされていた。
明治以降に実証的研究がなされ、大正時代には『長慶天皇御即位の研究』などが刊行される。
1926年(大正15年)10月には詔書が出され、正式に98代天皇として皇統に加えられ、陵墓も指定された。
東北までに至る各地に長慶天皇潜幸伝説が残っており、南部煎餅の祖とする伝承もある。
諡号・追号・異名
長慶院、慶寿院と呼ばれていた。
在位中の元号
正平 (日本) (1368年3月11日 (旧暦)) - 1370年7月24日 (旧暦)
建徳 1370年7月24日 - 1372年10月4日 (旧暦)
文中 1372年10月4日 - 1375年5月27日 (旧暦)
天授 (日本) 1375年5月27日 - 1381年2月10日 (旧暦)
弘和 1381年2月10日 - (1383年10月 (旧暦))
陵墓・霊廟・遺物
京都市右京区嵯峨天竜寺角倉町に所在する嵯峨東陵(さがのひがしのみささぎ)。
天皇の晩年を伝える資料は伝えられていない。
宮内省(当時)が近畿各地の寺社旧家や、有力な伝説地などの調査を行なったが陵墓に関わる資料は発見に至らなかった。
しかし天皇の皇子など近親者が晩年は地方を引き上げ入洛していることから天皇も晩年は入洛したことが推定される。
また、皇子の海門承朝(承朝王・相国寺三十世)が止住した天竜寺の塔頭慶寿院に由来して「慶寿院」と称したことから天皇もこの地で晩年を過ごし(当時天皇はその在所によって称された)、崩後はその供養所であったと思われる。
したがって慶寿院の跡地が天皇にとって最も由緒深い所と考えられた。
臨時陵墓調査委員会(1935年-1944年)で審議の結果、桓武天皇や安徳天皇など埋葬地以外が陵に治定されている前例を踏まえ、その跡地を整備、陵墓参考地に指定された。
そののち1944年2月11日(旧紀元節)に陵号を定めた。
同時に域内に皇子の海門承朝の墓も定められた。
しかし、他にも「長慶天皇墓」と称する陵墓も全国各地に点在しており、青森県、川上村 (奈良県)(奈良県)、太田市(群馬県)、二戸市(岩手県)など20ヶ所に及ぶとも言われている。
また、国宝「赤糸威鎧 兜、大袖付」(八戸市櫛引八幡宮所蔵)は、長慶天皇御料と伝えられている。
元中2年(1384)9月10日には高野山に「長慶天皇宸筆御立願文」(国宝、金剛峯寺蔵)を納めている。
これには、「太上天皇寛成」の宸筆署名がしたためられている。