顕宗天皇 (Emperor Kenzo)

顕宗天皇(けんぞうてんのう、顯宗天皇、允恭天皇39年(450年) - 顕宗天皇3年4月25日 (旧暦)(487年6月2日))は、記紀・『播磨国風土記』に伝えられる第23代の天皇(在位:顕宗天皇元年1月1日 (旧暦)(485年2月1日) - 同3年4月25日(487年6月2日))。
弘計天皇(おけのすめらみこと)・来目稚子(くめのわくご)、袁祁王・袁祁之石巣別命(おけのいわすわけのみこと、『古事記』)、袁奚天皇(『播磨国風土記』)とも。

系譜
市辺押磐皇子(いちのへのおしはのみこ、履中天皇の長子)の第3子。

母は葛城蟻臣(ありのおみ)の女・荑媛(はえひめ、荑は草冠+夷)。
仁賢天皇は同母兄に当たる。

『日本書紀』に皇子女の記載なし。
『古事記』にも「子無かりき」とある。

皇居
都は近飛鳥八釣宮(ちかつあすかのやつりのみや。現在の奈良県高市郡明日香村八釣、あるいは大阪府羽曳野市飛鳥の地か)。
『古事記』は単に「近飛鳥宮」とする。

略歴
安康天皇3年(456年)父が雄略天皇に殺されると、兄の億計王(後の仁賢天皇)と共に逃亡して身を隠した。
丹波国与謝郡(京都府丹後半島東半)に行き、後に播磨国明石に住む。
兄弟共に名を変えて丹波小子(たにわのわらわ)と名乗り、縮見屯倉首(しじみのみやけのおびと)に使役され、長い間牛馬の飼育に携わっていた。
清寧天皇2年11月(481年12月)、弘計王自ら新室の宴の席で、歌と唱え言に託して王族の身分を明かした。
子がなかった清寧天皇はこれを喜んで迎えを遣わし、翌年(482年)2王を宮中に迎え入れて、4月に兄王を皇太子に、弘計王を皇子とした。

同5年(484年)に清寧が崩御した後、皇太子の億計は身分を明かした大功を理由として弟の弘計に皇位(王位)を譲ろうとするが、弘計はこれを拒否。
皇位の相譲が続き、その間は飯豊青皇女が執政した。
結果的に兄の説得に折れる形で顕宗天皇元年(485年)正月、弘計が即位する。
罪無くして死んだ父を弔い、また父の雪辱を果たすべく雄略への復讐に走ることもあったが、長く辺土で苦労した経験から民衆を愛する政治を執ったと伝えられる。
3年4月(487年6月)、崩御。
『古事記』に38歳(ただし治世8年という)、『一代要記』に48歳。
なお、即位前に志毘臣(しびのおみ、平群氏)との恋争いのもつれから、これを夜襲して誅殺したという話もある(『古事記』)。

実在性について
古くから、億計・弘計2王の発見物語は典型的な貴種流離譚であって劇的な要素が強く、そのままには史実として信じ難いことが指摘されてきた。
伝承者として、歌舞を業として畿内を巡遊する芸能集団の存在が窺われ、物語素材も史実とはかけ離れた芸能的世界の所産であろうという。
この立場にたった場合、なぜ、このような物語が旧辞に取り入れられたのかははっきりしないが、越前国(あるいは近江国)出身であった継体天皇の先例として播磨国出身の顕宗・仁賢2天皇を設定することにより、万世一系的な王統譜に断層をもたらしかねない地方出身の王位継承資格者の特異性を払拭する意図があったとも言われている。

近年では、この伝承に史実性を認める説もでてきた。
兄弟が畿内周辺を彷徨し、聖なる新室宴において唱え言をあげたことや、弘計の別名である「来目稚子」が久米舞を継承する来目部(くめべ)を連想させること、神楽歌における囃し言葉を「おけおけ」ということなどから、当時に溯る民俗的背景がほのみえ、両皇子発見譚に史実性を認めながらも、詳細には意見は割れている。
若井敏明の説では億計王・弘計王の兄弟を発見したのは「忍海部」の人物であることから、実は兄弟は早くから飯豊王の保護下に匿われており、発見は半ば出来レースだったと推測する。
これに対し角林文雄などの説では物語の構成・展開に信憑性を認め、発見は本当に偶然だったとしている。

また、両皇子発見譚が仮に史実ではなかったとしても「史実でない物語が付加された」ということにすぎず、天皇系譜そのものを否定したことにはならないとし、億計・弘計の両天皇の存在を主張する意見も少なくない。

陵墓・霊廟
傍丘磐坏丘南陵(かたおかのいわつきのおかのみなみのみささぎ)に葬られた。
同陵は奈良県香芝市北今市にある前方後円墳に比定されている。

また、神戸市西区 (神戸市)押部谷町木津には、顕宗・仁賢両帝を祭神とする顕宗仁賢神社がある。
最寄り駅は神鉄(神戸電鉄)粟生線木津駅 (兵庫県)。
また、この神社の他に西区内や明石市には所縁を称する神社が数多くある。

[English Translation]