三条西家 (Sanjonishi Family)

三条西(さんじょうにし)家は、藤原氏藤原北家閑院流の正親町三条家の分家で、大臣家(旧家、内々)の家格を有する公家。
分家でありながら家格は本家の正親町三条家をしのぎ、三大臣家の中でも格別とされ、室町時代から江戸時代初期にかけ右大臣をたびたび輩出したため、その家格は清華家とほぼ同格とみなされていた。
閑院家嫡流の転法輪三条家にも、たびたび養子をだしたため、戦国時代 (日本)以降の転法輪三条家の直接の血統は三条西家のものである。
西三条ともいう。
江戸時代の家禄は502石。
明治維新後は、伯爵を授爵され西三条に改名した。
しかし、後、元の三条西にもどす。

概要

南北朝時代 (日本)後期、正親町三条実継の次男の大納言三条西公時を祖とする。
公時の子の三条西実清は中納言で止まったものの、その次の世代の三条西公保は本家である正親町三条家から養子に入り、生家の家格を引き継いだため、大臣家の家格を有することとなった。

代々和歌に優れ、室町時代後期の三条西実隆は歌人、書家として名をなし、戦国時代 (日本)の三条西公条、三条西実枝も和漢に精通し、この3人は三条西三代と呼ばれる。
三条西家による歌学の継承は、三条西実枝のあと、本来は三条西公国が継ぐべきであったが、まだ幼かったため、三条西実枝の高弟細川幽斎が中継ぎとして古今伝授を受け、三条西公国の成人をまって伝えた。
しかし、三条西公国が早世したため、幽斎は師実枝との生前の約束を誠実に果たし、再び三条西実条に伝えなおしている。
三条西実条のあとは三条西実教が継いだ。
以降、江戸期を通して歌道は三条西家の家職的学問となる。
近年、藤原定家の子孫としては、冷泉家が有名ではあるが、実際には、室町時代から明治期にいたるまで、二条家正嫡流を伝承する三条西家が、定家の後継者として、歌壇の主流を占めた。
(この二条家とは、摂関家の二条家ではなく、まったくの別流である。
別名の御子左家といったほうが、わかりやすかもしれない。
しかし、家としては、室町時代初期に断絶したため、三条西家がその学統を継いだ。
冷泉家は京極家とともに、この二条家の分家にあたる。
)また、香道の家としても一家をなした。
現在では、歌道よりも、御家流香道宗家として有名になっている。

江戸時代初期の女性で、江戸幕府3代征夷大将軍・徳川家光の乳母として有名な春日局も三条西家に縁のある人物で、三条西実条と猶妹の縁組をし、公卿である三条西家の息女として御所に参内し、局号を許された。
幕末期の当主は三条西季知で、いわゆる七卿落ちの一人として維新に際して勲功があり、また明治天皇の和歌師範としても有名である。
昭和の当主・三条西公正は、実践女子大学教授などを勤める一方、御家流香道宗家として香道の復興・発展に尽力した。
公正夫人は、香淳皇后の妹にあたる久邇宮信子女王である。
公正のあとを継いだのが三条西実謙であり、実謙もまた香道の発展に尽力した。
実謙の弟、実栄は母方のおじの家である久邇邦久を継承している。
現当主は三条西公彦であり、香道を広める活動を積極的に行っている。

三条西家の文書は、学習院大学、東京大学、国立公文書館、国立国文学歴史資料館、早稲田大学、カリフォルニア大学、天理大学、日本大学などの各研究機関に分散所有されている。

[English Translation]