井伊氏 (Ii clan)
井伊氏(いいし)は、近江国彦根藩の主家である。
近世大名、井伊氏の淵源
井伊氏(いいし)は藤原氏の後裔を称す。
藤原冬嗣6代孫の遠江国守藤原共資の養子、井伊共保が井伊谷の地へ移ったことに興ると伝える。
一説に三国姓ともされ明確ではない。
中世に約500年間井伊谷の庄を治め、南北朝時代 (日本)は南朝方に属した。
近世には近江国彦根藩主家となった。
南北朝時代には駿河国守護今川氏と対立していたが、やがて今川氏が遠江国の守護職を得るとその支配下に置かれる。
しかし、戦国時代 (日本)を通して、守護である今川氏とは微妙な関係である。
今川義元が尾張国の織田信長に敗れた桶狭間の戦いの際に井伊直盛は今川氏に従い討ち死にした。
戦後まもなく謀反を企てたとして井伊直親は今川氏真に討たれている。
この、一族を多く失った「遠州錯乱」時期に、直盛の娘の井伊直虎が家督を継いだ。
勢力は大きく衰退し、井伊谷の城と所領は家臣の横領や武田信玄の侵攻により数度失われている。
近世大名、井伊氏
1575年(天正3年)、養母の直虎に育てられていた直親の遺児の井伊直政(後に徳川四天王の1人となる)は今川氏を滅ぼした徳川家康を頼る。
多くの武功をたて、1590年(天正18年)には家康の関東入府に伴い上野国箕輪城12万石。
関ヶ原の戦いの後には近江国佐和山城に18万石を与えられる。
直政の死後、直政の子の井伊直勝は1604年(慶長9年)に近江国彦根に移り築城した。
しかし、1615年(元和 (日本)元年)幕命により弟の井伊直孝に彦根藩主の座を譲った。
直孝の代には35万石の譜代大名となる。
なお直勝は亡父の官名・兵部少輔を世襲、3万石として安中藩藩主となった。
宗家・井伊掃部頭家
江戸時代の彦根藩家は井伊直澄、井伊直興、井伊直幸、井伊直亮、井伊直弼と5代6度(直該が2度。)の大老職を出すなど、譜代大名筆頭の家柄となる。
なお直孝が大老になったかどうかは議論がある。
また、堀田氏、酒井氏、本多氏などの有力譜代大名が転封を繰り返す中、彦根藩家は1度の転封もなかった。
彦根城は35万石の大名としては、城郭が大きすぎ、築城にあたっては幕府が諸大名に手伝普請をさせた。
幕府が、大名の城を他の大名に普請させたのは、異例中の異例であって、京・大坂に備える城という意味があったといわれている。
江戸時代後期に直弼は老中阿部正弘の死後に大老となり、将軍後継問題では南紀派を後援した。
一橋派や反対の弾圧である安政の大獄を行うが、桜田門外の変で暗殺された。
直弼の死後、幕政の混乱の責任を直弼に押し付けられる形で10万石を没収された。
大政奉還後には譜代筆頭にもかかわらず新政府側に藩論を転向。
鳥羽・伏見の戦いでは新政府側に属し、続く戊辰戦争にも転戦する。
明治17年(1884年)伯爵となり華族に列した。
また、最後の藩主井伊直憲の双子の孫の内井伊直愛は、井伊家の旧領である彦根市の市町村長を1953年から9期の長きにわたって務めた。
分家・井伊兵部少輔家
井伊直政の長男、直勝は病弱だったといわれる。
この直勝が興した系統は、安中藩から西尾藩、掛川藩と転封された。
直勝の曾孫である当時の掛川藩主・井伊直朝が精神病だったために改易となった。
しかし、宗家・掃部頭家から井伊直興の4男・井伊直矩を兵部少輔家5代目に迎えての家名再興存続が許された。
城を持たない2万石の与板藩主となった。
その後、10代・井伊直朗が若年寄となった。
そのため、城主大名に昇格した。
維新後、子爵となり華族に列する。