坊門家 (Bomon Family)

坊門家(ぼうもんけ)は、鎌倉時代から室町時代にかけて存在した公家。
坊門を名乗る家系はいくつか存在するが、藤原北家の関白藤原道隆の子孫が著名である。

道隆の子の藤原伊周と藤原隆家は叔父藤原道長と対立し、花山天皇に矢を射かけた罪で左遷された(長徳の変)。
後に罪を許され、隆家の子の藤原経輔は正二位大納言まで昇進したが、道隆の弟の道長の子孫が藤原北家の嫡流となり摂政・関白を世襲していったため、道隆の子孫はしばらく不遇の時代を送ることになる。

平安時代の後期になると、経輔の孫の藤原経忠は妻の藤原実子が鳥羽天皇の乳母であったことから院近臣として白河天皇および鳥羽法皇に仕え従二位中納言まで昇進した。
経忠の孫の藤原信隆は生前は正三位非参議止まりであったが、安徳天皇が伊勢平氏一門とともに都落ちすると、信隆の娘で高倉天皇の典侍となっていた藤原殖子(七条院)所生の後鳥羽天皇(後鳥羽天皇)が皇位を継承し、後鳥羽天皇の外祖父にあたる信隆は従一位左大臣を追贈された。
坊門を家号としたのは信隆の子の坊門信清と坊門隆清の代からとされるが、実質的には信隆が坊門家の祖であると言える。

信隆の子の信清は後鳥羽天皇の叔父にあたり、また信清の娘は鎌倉幕府将軍源実朝の正室となったことから、坊門家は皇室・幕府いずれに対しても大きな影響力を持つようになった。
しかし、建保4年(1216年)に信清が薨去して以降、建保7年(1219年)には将軍源実朝が暗殺され、承久3年(1221年)の承久の変においては信清の子の坊門忠信は後鳥羽上皇ら討幕勢力に与したため流罪に処せられた。
当時、忠信は大納言の地位にあり、討幕計画に関与した公家の中では最も官位が高かった。
討幕計画に関与した公家の多くが処刑されており、本来であれば忠信も死罪は免れない状況ではあったが、亡き将軍実朝の義兄にあたることから罪一等を減じて流罪とされたのである。
以後、鎌倉時代を通して坊門家から公卿が輩出されることはなかった。

南北朝時代(日本)になると、信清の子孫の坊門信行が北朝において公卿に列し、隆清の子孫の坊門清忠は後醍醐天皇の側近となり公卿に列した。
しかしいずれの系統も断絶したために後世に家名を伝えることはできなかった。

なお、坊門忠信は坊門家庶家の水無瀬信成を養子としたが、信成の子孫からは水無瀬家・七条家・町尻家・桜井家・山井家の5家が堂上家に列し、明治にはいずれも華族となって子爵を授けられた。

[English Translation]