安倍氏 (奥州) (Abe clan (Oshu))
安倍氏(あべ し)は平安時代の陸奥国(後の陸中国)の豪族。
出自
そのルーツは明らかでなく、『平泉雑記』が伝える安倍氏自身の家伝によれば、神武天皇に殺された畿内の王長脛彦の兄安日彦をその始祖とし、安日彦の津軽亡命をもって安倍氏の発祥としている。
安藤系図、藤崎系図にも同様の記述が見られ、真偽は別にして安倍氏の後裔はそのような自己意識を持っていたことは確かである。
後世の研究では、秋田の蝦夷の帰順を得た阿倍比羅夫(藤崎系図)に起源をもとめたり、蝦夷をアイヌの祖先と同一視する立場からabeをapeと読み替えて完全な土着の先住民とみる説もある。
あるいは奥州に下った中央官人の安倍氏のいずれかが任地で子孫を残したとも、朝廷に従った蝦夷(俘囚)とも言われている。
「俘囚長」を巡る議論
安倍氏は俘囚長(俘囚の中から大和朝廷の権力によって選出された有力者)であったとの説が広く流布しているが、文献上では安倍氏を俘囚長とする記述は存在しておらず、康平7年の太政官符に「故俘囚首安倍頼時」との記載があるのみである。
軍事貴族としての安倍氏
従来、安倍氏を東北地方の在地の土豪と捉え、前九年の役を中央による辺境支配への反乱と見る解釈が主流であった。
しかし近年の軍事貴族研究の進展とともに、安倍氏を王朝国家特有の「兵(つわもの)」と見る考え方が登場している。
「兵(つわもの)」は、律令制には規定されていない軍事力で、地方で頻発する騒擾事件の鎮圧の為に用いられた一種の傭兵団。
中世の武士とは異なり、土地の所有と支配にはさほどこだわらない集団であったとされる。
関幸彦は、平氏や源氏、秀郷流藤原氏のような中央の貴族の末流の軍事貴族とは別にして、在地の土豪が中央の権力に従って軍事貴族したものも存在したであろうと指摘し、安倍氏もこの中に含まれるのではないかと論じている。
その傍証として関は、『陸奥話記』において安倍頼時が「大夫(五位の官位を持つ者の通称)」と呼ばれていることを指摘している。
前九年の役と安倍氏の滅亡
安倍氏は婚姻などによって勢力を拡大し、忠良の子、安倍頼時の代に最も勢力を広げた。
安倍氏は北上川流域の奥六郡(現在の岩手県内陸部)を拠点として糠部(現在の青森県東部)から亘理・伊具(現在の宮城県南部)にいたる広大な地域に影響力を発揮していた。
しかし後に安倍貞任が朝廷と対立し、源頼義率いる討伐軍との間で前九年の役と呼ばれる戦いを繰り広げる。
安倍氏は頼義に対し終始優勢のうちに戦いを続けたが秋田仙北の俘囚主清原氏が度重なる頼義の要請に応えて参戦すると、これを支えきれず貞任は敗北。
安倍氏の勢力は失われた。
頼時の三男・安倍宗任、五男・安倍正任はそれぞれ、伊予国(のちに筑前国の宗像)、肥後国に配流された。
また、亘理(宮城県亘理町)の豪族藤原経清の妻となっていた頼時の娘は清原武貞の妻となり、息子(後の藤原清衡)も武貞に引き取られ、養子となった。
清原氏は安倍氏の地位を受け継いだが、後三年の役で滅亡し、藤原清衡がその地位を継承して奥州藤原氏による黄金時代を築き上げた。
末裔
前九年の役で一旦滅亡したが、その子孫を称する人々が現れ繁栄して現在に至っている。
安倍貞任の子孫を名乗る津軽安東氏・安藤氏、その後裔で戦国大名として活躍した秋田氏、安倍宗任の子孫を名乗る九州松浦党とその後裔である平成時代の総理大臣安倍晋三が特に有名である。
また昭和初期に総理大臣・海軍大臣として活躍した米内光政も安倍貞任の末裔であると自負していた。