安東氏 (Ando clan)
安東氏(あんどうし)は、日本の中世に本州日本海側最北端の陸奥国津軽地方から出羽国秋田郡の一帯を支配した武家。
津軽安藤氏とも。
本姓は安倍氏 (奥州)。
鎌倉時代には御内人として蝦夷管領となり、室町時代には京都扶持衆に組み入れられたと推定され、後に戦国大名となった。
近世以降は秋田氏を名乗り大名として存続し、明治維新後は子爵となった。
なお、アンドウの表記について諸史料では主として鎌倉時代から南北朝時代 (日本)にかけての津軽時代には「安藤氏」、室町時代中期以降の秋田時代には「安東氏」とされている例が多いことから、個人名表記は概ね15世紀半ばまでを「安藤」、以降を「安東」とするが、本稿では便宜上、氏族名は「安東」で統一する。
家系
安倍貞任第2子の高星丸を始祖とする系譜を伝え、津軽地方を中心に西は出羽国秋田郡から東は下北半島までを領した豪族である。
その実際の家系については、『保元物語』に登場する信濃国の安藤次、安藤三との関係などを指摘する説、『吾妻鏡』に登場する三沢安藤四郎との関係などを指摘する説もあるが分かっていない。
安東氏の後裔である旧子爵秋田氏には、長髄彦の兄である安日彦の子孫という伝承が残っているが、これは蝦夷の祖を安日に求めた室町期成立の『曽我物語』の影響を受けている可能性が高いため、信憑性は低いと考えられている。
ただし、自らを蝦夷の子孫と伝承してきたことは確かであり、「朝敵」の子孫であるとする系図を伝えてきたことが、北奥地方に独特の系譜認識を示すものとされている。
近年の研究では、陸奥国一宮鹽竈神社の神人であり鹽竈神社の神領の管理をしていたこと、「津軽山賊」と記載された史料があること等から、「海民」、「山民」としての性格を持つ豪族であったとも推定されている。
津軽時代
『保暦間記』によると北条義時の頃、安藤五郎が東夷地の支配として置かれたとされ、『諏訪大明神絵詞』では安藤太が蝦夷管領となったとされている。
これらの史料から安東氏は、鎌倉中期頃から陸奥に広範囲の所領を有した北条氏宗家(得宗)の被官(御内人)として蝦夷の統括者(蝦夷沙汰代官職)に任ぜられ、北条氏を通じて鎌倉幕府の支配下に組み込まれていったものと考えられている。
また、『日蓮遺文』の「種種御振舞御書」には建治元年(1275年)のこととして次の記載がある。
「安藤五郎は因果の道理を弁へて堂塔多く造りし善人也。いかにとして頸をばゑぞにとられぬるぞ。」
これを、アイヌに仏教を強要したためとする意見もあるが、この頃元 (王朝)が樺太アイヌを攻撃したことが元史に記録されており、ここでいう「ゑぞ」をアイヌではなく広く北方の異民族と解し、安藤氏がアイヌを率いて元に討たれたのではないかと推察する説もある。
その後、鎌倉時代末期から南北朝時代を通し津軽十三湊を本拠地とし栄えたと言われるが、十三湊を支配した時期については諸説あり確定していない。
近年、中世国家の東西境界周辺の得宗被官である、西の千竈氏と東の安東氏の比較検討研究が進み、ともに中央部の武士団に比べて所領面積が広大であり、国家の境界外に及んでいる点が指摘されている。
その実態は、交易を通じての経済的権益であると推定されている。
安東氏の所領は稲作には必ずしも適さない土地に広がっており、その内陸部から得る利益は少ないものの、日本海に大きな交易網を形成することにより多大な経済的利益を得ることが可能な沿岸部の良港を押さえていたことから、海の豪族とする見方がされている。
その勢力は津軽海峡を跨いで蝦夷地に及び、蠣崎氏ら蝦夷島南部の渡党(一般的には和人勢力とされているが疑問も呈されている)を被官とした。
鎌倉時代末期には一族で争いが起こり、正中 (元号)2年(1325年)に北条高時が蝦夷管領を安藤季長から従兄弟である安藤季久に代えると、争乱は幕府への反乱に発展する(蝦夷大乱)。
翌嘉暦元年(1326年)には幕府から追討を受け、嘉暦3年(1328年)に和睦する。
この争いを、文永元年(元の至元 (元世祖)元年/1264年)から徳治3年(元の至大元年/1308年)にかけての骨嵬(アイヌ)と元との交戦後の講和を巡る方針争いによるとする見解がある。
鎌倉末期から南北朝時代における安東氏の支配領域は、安藤宗季(上記の季久とする説が有力)による譲り状や安藤師季に対する北畠顕家安堵状によると、陸奥国鼻和郡絹家島、尻引郷、行野辺郷、蝦夷の沙汰、糠部郡宇曾利郷、中浜御牧、湊、津軽西浜以下の地頭御代官職となっており、現在の青森県地方のうち八戸近辺を除く沿岸部のほとんどと推定されている。
上記で安堵された所領には、十三湊も、系図により本来の根拠地とされている藤崎町も含まれていないが、「湊」を十三湊とする見解、十三湊は「蝦夷の沙汰」に含まれるとする見解、「津軽西浜」に含まれるとする見解(「湊」は大畑漁港と見る)などがある。
しかし、安東氏の十三湊進出自体を遅く見る見解もあり分かれている。
また藤崎についても諸説あり、よく分かっていない。
一方で鎌倉中期から橘氏の支配を離れた出羽男鹿半島が北条氏の所領となり、安東氏がその地頭代となったのではないかとする説もあり、宗家とは別の安東一族の海を通じた広がりが推定されている。
なお一時期、青森県の公共団体が、偽書『東日流外三郡誌』の記載に基づき、安東氏の活躍を村おこしに繋げようとする試みをしたことがある。
が、現在では青森県教育庁発行の報告書にも「なお、一時公的な報告書や論文などでも引用されることがあった『東日流外三郡誌』については、捏造された偽書であるという評価が既に定着している。」と記載されるなど、偽書であるとの認識は一般的になっている。
二家分裂
経緯の詳細は不明であるが、室町時代に入ると下国(しものくに)と上国(かみのくに)の二家に分かれ対立したと見られている。
上国家は出羽小鹿島や土崎港(現秋田県秋田市)を領し、後に秋田郡を制して秋田城を称した。
一方、津軽を領した下国家は15世紀半ば頃、東の八戸市方面から勢力を伸ばしてきた南部氏に追われた。
いったん蝦夷島に逃れた後室町幕府の調停で復帰したものの再度蝦夷地に撤退、更に出羽に移り檜山郡 (出羽国)(現秋田県能代市)を中心に出羽最北部西半から蝦夷地南部を領した。
近年の発掘結果からは、十三湊遺跡の最盛期は14世紀半ばから15世紀前半と推測されており、文献資料と矛盾しない結果となっている。
下国家と上国家は、それぞれ陸奥国北辺と出羽国北辺で蝦夷管領の役割を果たしていたとも推察されている。
この頃から「安藤」の表記を「安東」とする例が多くなるが理由は明らかでない。
更に、室町幕府の奥羽大名施策において、両安東氏を屋形を称する家柄として秩序立てていたとする見解もある。
下国家
出羽南遷前の安藤康季は若狭国羽賀寺の再建に際して奥州十三湊日之本将軍と称し、天皇もその呼称を認めていたということが知られている。
が、盛季以前の下国家の系譜は諸系図によりまちまちであり、一級史料に見える名と系図の名が一致しない等系図の信憑性に疑問が持たれているため、実態については、いまだ研究の途上にある。
安藤盛季以降の系譜については生没年等に諸説あるものの、ほぼ疑いのないものと考えられている。
安東政季は分家の潮潟安藤家出身であったが、下国家の蝦夷島撤退のころ南部氏の捕虜となり、まもなく南部水軍の根拠地であった田名部(むつ市)を知行し「安東太」を称した。
これを、南部氏が政季を傀儡とし北方海域の各地に広く分布していた安藤氏の同族を掌握したため、北方海域の安定化と幕府権威の浸透につながったとし、このとき下国家は断絶し潮潟安藤政季から新たに檜山安東氏が始まるとしている説がある。
しかし政季もまた南部氏と対立し戦闘に敗れて蝦夷島に撤退している。
このとき、三守護職を代官として設置した(道南十二館)ことが『新羅之記録』に記載されているが、実態は安東家政或いは安東定季が一人守護として統括していたとする見解も出されている。
下国家は安東政季以降、津軽と隣接する出羽国檜山郡 (出羽国)を本拠地とし、津軽帰還を試みたが果たせなかった。
1456年(康正2年)、「河北千町」を領していた葛西秀清を政季・安東忠季父子が滅ぼしてここに本拠を構えた。
政季が築城を開始して忠季が1495年(明応4年)頃に修築を完了したのが、檜山安東氏城館跡である。
以後、安東尋季、安東舜季、安東愛季、秋田実季まで5代にわたり下国家檜山安東氏の居城となり、ここを本拠に陸奥国比内、同国阿仁方面に勢力を拡大したと見られる。
比内と阿仁が出羽国の一部として扱われるようになったのは、これ以後と推定される。
忠季以降の安東氏は、檜山築城や寺院建立を行う一方で蝦夷島の経営にも努め檜山屋形と称した。
しかし、次第に蝦夷島が安東氏の統制から離れ始め、特に蝦夷において被官であった蠣崎氏が上国守護職に加えて松前守護職を名乗ったことを追認せざるを得なくなるなど、戦国時代 (日本)前期には実質上北出羽の一豪族となった。
しかし、下国家はなおもかつての勢力圏の支配の意欲を捨てておらず、東海将軍を称して内外に出羽、陸奥北部から蝦夷にかけての支配圏を誇示しようとした(これには否定的見解も出されている。)。
特に舜季は蝦夷地に渡り蠣崎氏とアイヌとの講和を仲介するなど蝦夷に対する一定の権威を示している。
一方で日本海海運の拠点であった小浜市に代官関戸氏を置いていたとの見解もあり、北日本海に止まらない活動範囲も指摘されている。
上国家・湊家
上国家の成立について、従来の説は安藤鹿季が出羽湊に入ったとの系図記載記事を踏襲したものであった。
が、近年、南北朝時代成立の史料により次の見解などが出されている。
男鹿半島の領主として確認される安藤孫五郎、安東太の両者や、「市川湊文書」に含まれている寺社修造棟札写に残る寂蔵、安倍忠季、安倍浄宗等が鹿季の南遷と伝えられている時代以前に遡れること、湊家以前の男鹿半島の領主を女川家と伝える伝承があること等から、湊家の成立と伝えられる以前に安東一族が秋田郡に土着していた可能性を指摘する見解
鎌倉末期に蝦夷大乱において惣領から退けられた季長を上国家の祖と見なす見解。
また、鹿季を宗季の子とする系図を支持する見解もある。
上国家は、一般的に湊家と称し、遅くとも天文 (元号)年間には京都扶持衆となっていること、代々「左衛門佐」を名乗り本願寺や細川氏とも誼を通じるなど中央との交流があったこと等が史料から確認されていること。
しかし、事績を伝える確実な史料に乏しく研究が進んでいない。
その系譜についても、伝承されている系図が、南部氏の史料とは概ね一致するものの、前述の寺社修造棟札写から復元される歴代とは異なっており、女川家も含めてその実態については今後の研究が待たれている。
両家統合
戦国時代 (日本)後期に入ると上国家湊安東氏に後嗣がなく断絶の危機を迎えたため、詳細は不明であるが檜山下国家の安東愛季が湊家をも継承して安東家を統合した。
愛季は織田信長とも誼を通じる一方、浅利勝頼ら領内の反抗勢力を滅ぼし、由利地方から大宝寺氏の干渉を駆逐した。
安東氏は戦国末期になってようやく、秋田郡・檜山郡 (出羽国)・河辺郡・由利郡を領有する戦国大名へと脱皮を遂げたのである。
更に天正17年(1589年)、居城を檜山から湊へ移し秋田城介を名乗った。
安東氏は愛季の晩年に秋田氏と改姓し、秋田実季の代には湊合戦を鎮圧。
豊臣秀吉時代を出羽国秋田藩52,404石の大名(更に蔵入地26,245石の代官)として生き延び、伏見城築城や文禄・慶長の役の際の杉板供給役を務めた。
近世大名秋田氏
関ヶ原の戦い後、慶長7年(1602年)、常陸国常陸宍戸藩(現茨城県笠間市)50,000石に国替となり、さらに正保2年(1645年)には陸奥国三春藩(現福島県三春町)55,000石に移った。
まもなく5000石を分家に分与して50,000石の三春藩主として江戸時代を通じ大名として存続し、明治維新に及び華族に列し、子爵を授けられた。