村上源氏 (Murakami-Genji (Minamoto clan))
村上源氏(むらかみげんじ)は、62代村上天皇の皇子を祖とする賜姓皇族のひとつ。
第七親王の具平親王の子で藤原頼通の猶子となった右大臣源師房の子孫が栄えた。
概要
源師房は2歳で父親と死に別れて姉である隆姫女王に育てられた。
隆姫が後に摂政藤原頼通の正室となると、子供のなかった藤原頼通は資定王と養子縁組をするために臣籍降下させ、源師房と名を変えた。
藤原頼通の父・藤原道長も師房を寵愛して娘を嫁がせた上に藤原頼通に男子が生まれなければ、師房を藤原氏に改姓させて摂家を相続させても構わないと言ったとされている。
摂家との強い結びつきは「源氏と雖も、土御門右丞相の子孫は御堂の末葉に入る」(『台記』)といわれた。
すなわち師房は、村上源氏にして藤原道長を継ぐ者とされていた。
師房は摂家を継ぐことはなかったものの、子孫からは多くの大臣を輩出した。
源顕房の娘・藤原賢子が産んだ堀河天皇の治世では、「左右大臣、左右大将、源氏同時に相並ぶ例、未だ此の事あらず」(『中右記』寛治7年(1093年)12月27日条)、「近代公卿廿四人、源氏の人半ばを過ぎるか、未だ此の如き事あらんか」(『中右記』康和4年(1102年)6月23日条)とあるように外戚として隆盛を極めた。
源雅実は源氏初の太政大臣となる。
その後、外戚の地位を閑院流に奪われて勢力は後退するが、鎌倉時代の源通親は九条家に対抗し後白河天皇・後鳥羽天皇の院政下で活躍。
土御門天皇の外祖父として権勢を振るう。
源通親の子供久我通光以降久我家を家名とし、足利義満が太政大臣となるまでは清華家である久我家・堀川家・土御門家・中院家の4家が交互に源氏長者を世襲したが、室町時代に堀河・土御門両家が断絶(戦国時代_(日本)以後の堀川・土御門家はそれぞれ藤原氏・阿倍氏の子孫)し、久我家・中院家両家の世襲となる。
源氏といえば武家として活躍した清和源氏を想起する人が多いが、公家社会では村上源氏が最高とされていた。
久我家からは大臣家となる中院家やその分家筋である北畠家、岩倉家他、合計10家の堂上家を輩出した。
南北朝時代 (日本)の北畠親房、幕末の岩倉具視も村上源氏の支流である。
一方、播磨国赤松を名字の地とする赤松氏もまた村上源氏季房流と自称した。
また、名和長年も村上源氏雅兼流と自称している。
さらに奥三河の作手村城主(奥平氏)の奥平貞能・奥平信昌父子も村上源氏と自称する赤松満則流と称した。