高倉家 (Takakura family)
高倉家(たかくらけ)は藤原北家である藤原長良の子孫である藤原範賢の子高倉永季(ながすえ)(位階・参議)(1338年 - 1392年)を祖とする堂上家である。
長良の系統は藤原北家の主流から大きく外れ、永季の父藤原範賢までは六位蔵人を務める地下官人だった。
しかし高倉永季(ながすえ)は衣文道を以って後光厳天皇・後円融天皇・後小松天皇の3代にわたって仕え、その功により公卿の仲間入りを果たした。
高倉永季の子の高倉永行(位階・参議)(生年不詳 - 1416年)以降は足利将軍家の衣文道の指導にも当たり、朝廷での有職故実を山科家にも伝授した。
これが衣文道の高倉流・山科流の始まりである。
戦国時代 (日本)の高倉永相(ながすけ)(1530年 - 1585年)は最後の室町幕府将軍・足利義昭とともに二条城で織田信長と対決したが敗北し、信長に投降した。
そして後に許されて位階・権大納言となり、これ以降の高倉家の当主の極官となる。
江戸時代は代々徳川将軍家の衣装調達や衣文道の指導にも当たり、江戸滞在の折には各大名家で有職故実や衣文道の知識を広めていった。
家格は半家で極官は位階・権大納言。
江戸時代の家禄は812石、明治時代以降は子爵。
高倉家伝来の古文書・典籍・装束などは、現在(旧名「高倉文化研究所」)に所蔵されており、同研究所は伝統保持のための運動を地道に進めている。