大江氏 (Oe clan)
大江(おおえ)氏は古代から近世の貴族。
源、平、藤原、橘と同じく姓(本姓)であり、苗字ではない。
奈良時代
古代の氏族である土師氏が源流とされる。
桓武天皇が即位10年となった延暦9年(791年)に、縁戚関係にある大枝諸上らに大枝の姓を与えた。
平安時代
866年には大枝音人が姓を改め、大江音人となる。
大江氏には優れた歌人や学者が多く、朝廷に重く用いられた。
中古三十六歌仙と呼ばれる和歌の名人三十六撰に、大江氏から大江千里 (歌人),大江匡衡,大江嘉言,女性からは和泉式部,赤染衛門らが選出されている。
大江匡衡の孫に平安時代屈指の学者であると共に河内源氏の源義家(八幡太郎義家)に兵法を教えたとされる大江匡房がいる。
鎌倉時代
1184年に河内源氏の棟梁の源頼朝に仕えた大江広元は大江匡房の孫であり、頼朝の覇業を内政面で支える。
頼朝が鎌倉幕府を開くと、広元は幕府の中枢にまで昇りつめた。
このことから大江広元の系統は、武家の大江氏として毛利氏をはじめとする武家の祖となる。
1247年に大江広元の四男の大江季光(毛利季光)が、鎌倉幕府に対し謀反を起こした三浦泰村に味方したため、武家大江氏の嫡流は衰退する。
その後
大江広元の後裔は各地方で武家として活躍。
その末裔に以下がある。
安芸国出雲国の毛利氏
三河国の海東氏,酒井氏,芦澤氏
越後国の越後北条氏,安田氏
出羽国の寒河江氏,長井氏
上野国の那波氏
また、広元の兄匡範の子孫は宮廷官人として残り、室町時代後半からは北小路家を称し、江戸時代は地下家として3家(蔵人2家、近衛家諸大夫1家)を輩出した。
この内、代々蔵人を勤めた2家は江戸時代後期の弘化4年12月17日 (旧暦)(1848年1月22日)堂上家(半家 (公家))に列せられた(最後の堂上家昇格)。