松永氏 (Matsunaga clan)

松永氏(まつながし)は大和国の戦国大名である。

松永氏は祖先の武内宿禰から16世の孫真済が若狭国国司となり、同国遠敷郡松永荘より紀松永と称したことに始まるとされる。
これによると紀氏の流れということになるが、戦国大名の松永氏は藤原氏または源氏を自称している。

乱世における一代の奸雄・松永久秀を祖とする大名家であるが、この久秀は出自すら詳しくわかっていない。
ただ、近年の研究から山城国の石清水八幡宮近辺が有力説として上がり、そのために同じ山城出身の美濃国を乗っ取った斎藤道三と旧知の間柄にあったという説まで存在する。

久秀は最初、細川氏に仕えていた三好長慶の右筆となった。
そしてめきめきと実力を現し、京都奉行から三好氏の宰相にまでなった。
軍事面や築城に優れ、1560年には陪臣の身でありながら主家同様に室町幕府の御相伴衆にまで列せられているのを見てもわかるように、松永氏は久秀の優秀な能力において成長を遂げていったのである。

しかし1561年の長慶の弟・十河一存の急死や1563年の長慶の子・三好義興の死は、久秀の毒殺説が有力である。
少なくとも、1564年の長慶の弟・安宅冬康の死は久秀が長慶に讒言して殺させたものであり、久秀はどうも三好氏の乗っ取りを企んでいたようである。
同年、長慶も病死して三好氏が弱体化すると久秀は畿内における覇権を握ろうと1565年、時の将軍・足利義輝を殺害する。
そして三好三人衆と対立しながらも一時は畿内における覇権を掌握し、松永氏の最盛期を築き上げたが、1568年、織田信長が義輝の弟・足利義昭を奉じて上洛してくると、信長の優れた器量と圧倒的軍事力を知って、名器・九十九髪茄子を信長に献上して降伏し、信長の家臣となっている。

しかし久秀は、信長が義昭と対立して信長包囲網が敷かれて窮地に陥ると、これに背いている。
しかしこのときは武田信玄の死や室町幕府の滅亡など悪条件が重なって、1573年末に織田信長に降伏している。

そして1577年、上杉謙信の能登国・加賀国侵攻に呼応して、再び謀反を起こし信貴山城に立て籠もる。
しかし、織田軍は手取川の戦いで上杉謙信に敗北していたものの十分な余力を残していたため、久秀は各個撃破の戦略を採った織田軍にあえなく追い詰められた。
久秀は信長がかねてから所望していた古天明平蜘蛛を抱いて爆死。
このとき、久秀の嫡男・松永久通も自害して、戦国大名としての松永氏は完全に滅亡した。

だが、出家して放浪中であった久秀の息子松永永種が生き残り、その息子である松永貞徳は俳人として名を残したという。
なお、尾張藩に松永国華という儒学者もいたが、この人物も子孫とされている。

[English Translation]