橋本家 (Hashimoto Family)

橋本家(はしもとけ)
藤原北家閑院流、西園寺流の公家。
西園寺公相の子西園寺実俊から始まる。
伯爵。
本項にて解説。

新華族。
陸軍軍医総監などを務めた橋本綱常が、勲功により、明治28年10月31年男爵に叙せられる。
明治40年9月23日子爵に陞爵。

橋本家(はしもとけ)は、羽林家の家格を有する公家。
藤原北家閑院流。
西園寺家分家。
江戸時代の家禄は500石。
明治維新後、伯爵。
家業は笛。
家紋は尾長巴。

鎌倉時代末期、西園寺公相の四男橋本実俊を祖として創設される。
実俊は冷泉・橋本・入江などを称していたが、孫の橋本実澄の代から橋本の家名が定まった。
6代目の橋本公国まで父子相続が続いたが、公国に跡継ぎがなく、同じ西園寺家一門の清水谷家から橋本公夏(1454年-1538年)が養子に入った。
公夏は播磨国で出家し、彼の後は孫で養子の橋本実勝が継いだが、天正16年(1588年)横死して家系は中絶。
その後、江戸時代初期に一族の橋本実村(公夏の曾孫)が実勝の養子の形式で家を継いだ。
実村の弟実清(梅園実清)は分家して梅園家の祖となった。
江戸時代後期の橋本実久は議奏を務め、安政の内裏造営のときも御用掛を務めた。

江戸時代末期、明治維新期の橋本実麗(さねあきら)は、国事に尽力。
実麗の妹、観行院(つねこ、観行院)は、仁孝天皇に典侍として仕え、14代将軍徳川家茂に降嫁した和宮親子内親王の生母となった。
和宮は、仁孝天皇崩御後は、橋本家で養育された。

実麗の子の橋本実梁(さねやな)は、戊辰戦争で東海道鎮撫総督となる。
明治17年7月7日伯爵の位を授けられた。

橋本実斐(さねあや)は、貴族院議員、内務省参与官、文部省政務次官を歴任した。

[English Translation]