福知山藩 (Fukuchiyama Domain)

福知山藩(ふくちやまはん)は、丹波国天田郡(現在の京都府福知山市内記)に存在した藩。
居城は福知山城。

藩史

戦国時代 (日本)の天正7年(1579年)、織田信長の家臣であった明智光秀に丹波一国が与えられ、光秀は一族の明智秀満にこの地を任せた。
天正10年(1582年)に光秀が信長に対して謀反を起こしたとき、秀満はその挙兵に賛成し、信長を本能寺に討った後は安土城を占領した。
光秀が山崎の戦いで豊臣秀吉に敗れると、秀満は安土城を放棄して有名な「湖水渡り」を行なって近江坂本城にいる光秀の妻子を刺し殺して自分も自殺した。
その後、丹波は秀吉の支配下となり、福知山には杉原家次、小野木重次(公郷)らが入る。
重次は慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いにおいて西軍に味方し、丹後田辺城(舞鶴城)の城攻戦総大将となるが、本戦で西軍が壊滅すると東軍の細川忠興の追討を受けて自害した。

同年末、関ヶ原で東軍に与した有馬豊氏は、本戦で後ろ揃えを務めた武功から、遠州横須賀藩3万石から福知山6万石に加増移封され、ここに福知山藩が立藩した。
慶長7年(1602年)に豊氏の父であった有馬則頼が死去すると、豊氏は父が摂津国三田藩に領していた2万石も相続することとなり、合計8万石の太守となった。
その後、大坂の陣においても徳川方として武功を挙げたため、元和 (日本)6年(1620年)閏12月に20万石に加増の上で筑後国久留米藩に移封された。
その後は伏見奉行・小堀政一がしばらくは統治を行なう。

元和7年(1621年)8月、丹波亀山藩から岡部長盛が5万石で入るが、寛永元年(1624年)9月に美濃国大垣藩に移される。
代わって摂津国中島藩から稲葉紀通が4万5700石で入るが、慶安元年(1648年)8月に改易となった。
その後、半年ほどは天領となったが、慶安2年(1649年)2月28日に三河国刈谷藩から松平忠房(島原藩主)が45900石で入る。
しかし寛文9年(1669年)6月8日には肥前国島原藩に7万石で加増移封となった。
代わって、常陸国土浦藩から朽木稙昌が3万2000石で入り、以後、朽木氏13代の支配で藩政は安定化した。

明治4年(1871年)7月14日の廃藩置県で福知山藩は廃藩となり、福知山県となる。
同年10月2日、豊岡県となり、明治9年(1876年)8月21日には京都府に編入されることとなったのである。

藩政

福知山は、藩が成立する前の戦国時代、光秀の治世の下で地子銭免除や城下町建設、近世的な福知山城の築城などが行なわれている。
初代藩主となった有馬豊氏は福知山城や城下町の整備を行ない、検地を行なって藩政を確立した。
岡部氏は短期間のため、見るべき治績はない。

岡部氏の後に入封した稲葉紀通は暗愚な人物で、家中や領民に対して悪政を敷くという暴君であった。
慶安元年(1648年)には丹後国宮津藩主・京極高広との間に諍いを起こし、それが原因で紀通が謀反を企んでいるという風聞が流れた。
わずか4万5700石、動員兵力においても1500人ほどにしか満たない紀通が謀反を起こしたところでたかが知れていたはずである。
しかし、幕府もこの風聞を信じて近隣の諸藩に出兵を命じたため、同年8月20日、紀通は福知山城にて鉄砲自殺して果て、稲葉氏は改易となった。

松平忠房は、藩内に検地を実施する。
これは明治時代の地租改正までに至る福知山藩の土地制度の基礎となったため、松平検地と呼ばれた。
なお、寛文6年(1666年)には宮津城の受け取り役を務めている。

そして朽木氏であるが、この朽木氏は朽木元綱で有名な朽木氏である。
初代藩主・朽木稙昌の父・朽木稙綱 (土浦藩主)は徳川家光のもとで御小姓番頭、奏者番を務め、常陸土浦に3万石を与えられ、譜代大名として厚遇された。
歴代藩主の多くはその経緯から、奏者番・御小姓番頭・寺社奉行を務めている。
藩財政は稙昌の頃から既に苦しく、元禄4年(1691年)には5ヵ年にわたる半知を行なっている。
第5代藩主・朽木玄綱の時代には享保の大飢饉が原因で享保の強訴と呼ばれる騒動が起こり、藩内は混乱した。
なお、玄綱は明智光秀御霊法会を許可している(御霊祭りの開始)。

歴代藩主の中でも第7代藩主・朽木舖綱と第8代藩主・朽木昌綱は文人として知られ、前者は『擬独語』を著わし、藩校創設の基礎を築き上げた。
後者は大槻玄沢ら蘭学者やオランダ商館長(カピタン)と交遊を持って蘭学を研究し、『蘭学階梯』の序文や『泰西輿地図説』、『古今泉貨鑑』など、多くの貴重な著作を残した。
第9代藩主・朽木倫綱も領民の教化を図って『岩間の水』を著わしている。

福知山藩では財政再建の必要性から、藩政改革がいくたびも行なわれたが、その都度に失敗する。
それは、百姓による強訴が常に起こったからである。
特に前述の享保年間と、幕末の万治元年(1860年)の強訴は大規模であった。

有馬(ありま)家

6万石→8万石。
譜代。

有馬豊氏(とようじ)<従四位下。
玄蕃頭。
侍従>【慶長5年12月3日藩主就任-元和6年閏12月8日移封】

天領(てんりょう)

小堀政一(まさかず)<伏見奉行>

岡部(おかべ)家

5万石。
譜代。

岡部長盛(ながもり)<従五位下。
内膳正>【元和7年8月藩主就任-寛永元年9月移封】

稲葉(いなば)家

4万5700石。
外様。

稲葉紀通(のりみち)<従五位下。
淡路守>【寛永元年9月藩主就任-慶安元年8月20日自殺改易】

天領(てんりょう)

小川藤左衛門と彦坂平九郎。

松平(深溝)(まつだいら(ふこうず))家

4万5900石。
譜代。

松平忠房 (島原藩主)(ただふさ)<従五位下。
主殿頭>【慶安2年2月28日藩主就任-寛文9年6月8日移封】

朽木(くつき)家

3万2000石。
譜代。

朽木稙昌(たねまさ)<従五位下。
伊予守>【寛文9年6月8日藩主就任-宝永5年6月25日隠居】〔奏者番〕

朽木稙元(たねもと)<従五位下。
民部大輔>【宝永5年6月25日藩主就任-享保6年11月24日死去】〔奏者番〕

朽木稙綱 (福知山藩主)(たねつな)<従五位下。
伊予守>【享保6年12月25日藩主就任-享保11年5月5日死去】

朽木稙治(たねはる)<従五位下。
土佐守>【享保11年5月11日藩主就任-享保13年11月23日隠居】〔御小姓組番頭〕

朽木玄綱(とうつな)<従五位下。
土佐守>【享保13年11月23日藩主就任-明和7年8月30日死去】〔奏者番。
寺社奉行〕

朽木綱貞(つなさだ)<従五位下。
大炊頭>【明和7年10月24日藩主就任-安永9年8月6日隠居】

朽木舖綱(のぶつな)<従五位下。
伊予守>【安永9年8月22日藩主就任-天明7年9月19日死去】

朽木昌綱(まさつな)<従五位下。
近江守>【天明7年11月22日藩主就任-寛政12年4月9日隠居】

朽木倫綱(ともつな)<従五位下。
土佐守>【寛政12年4月9日藩主就任-享和2年12月20日死去】〔奏者番〕

朽木綱方(つなかた)<従五位下。
土佐守>【享和3年1月12日藩主就任-文政3年6月3日隠居】

朽木綱条(つなえだ)<従五位下。
隠岐守>【文政3年6月6日藩主就任-天保7年5月28日死去】

朽木綱張(つなはる)<従五位下。
近江守>【天保7年7月29日藩主就任-慶応3年2月25日死去】〔奏者番を2回〕

朽木為綱(もりつな)<従五位下。
近江守>【慶応3年4月17日藩主就任-明治4年7月15日知藩事免官】

[English Translation]