筒井氏 (Tsutsui Clan)

筒井氏(つついし)は、大和国の戦国大名である。

出自

筒井氏は大神神社の神官・大神氏の一族と言われている。
筒井氏は大和国添下郡筒井の土豪として大和に勢力を持っていた。
鎌倉時代以降、大和国守護は興福寺が務めており、筒井氏もその衆徒として組み込まれるが、戦国時代 (日本)に入ると興福寺の勢力が衰退し、筒井氏や越智氏の勢力が台頭してくる。
1467年の応仁の乱では、河内国の守護大名である畠山氏の抗争に巻き込まれて、大和国内は混乱する。

そのような中で筒井氏の当主となった筒井順興は英明で、大和国人衆の一人として興福寺に属しながら宿敵・越智氏を討ち滅ぼして勢力を拡大し、筒井氏を大和の戦国大名としてのし上げた。
1535年に順興は死去し、嫡男の筒井順昭が後を継いだ。
順昭も英明で、信貴山城を本拠にして木沢長政と戦い、遂には大和を統一。
さらに、河内にもその勢力を伸ばし筒井氏の全盛期を築き上げた。
しかし、順昭は1550年に28歳の若さで死去し、嫡男でわずか2歳の筒井順慶が後を継ぐこととなる。
木阿弥の話はこの世代交代を舞台にしている。

筒井順慶

順慶はわずか2歳で当主となるが、その年齢で政務を執れるはずが無く、叔父の筒井順政が後見人を務めた。
しかし順慶が幼少であるのを見て、三好長慶の家臣・松永久秀が大和に侵攻して来る。
順慶は幼少で、しかも順政も1564年に死去という悪条件が重なった筒井氏には軍の統率が取れず、筒井城を久秀に奪われた(筒井城の戦い)順慶は大和から追放された。

後に久秀が三好三人衆と対立したときには、三人衆に属して大和国奪回を目指したが、久秀の前にたびたび敗れた。
このため、順慶は当時の天下人である織田信長の家臣となり、その後ろ盾をもって信長の客将となっていた久秀から大和守護に任じられた。
その後は明智光秀の与力大名として久秀討伐(信貴山城の戦い)、一向一揆討伐などで活躍した。
1582年、本能寺の変が起きて光秀が信長を殺すと、その与力という関係から協調行動を勧誘されるが、順慶は拒否。
所領は安堵された。
このときの筒井軍の行動が後世に脚色され、日和見的態度を指す「洞ヶ峠」の由来となった。
順慶は1584年に36歳の若さで死去する。
嗣子が無いため、後を養嗣子の筒井定次が継いだ。

筒井氏の滅亡とその後

定次は豊臣秀吉の家臣として仕えた。
しかしこれまでの英明な筒井氏当主に比せば見目は良いものの平凡な人物で、中坊秀祐の讒言を受け入れて名臣の島左近と対立し、これを追放してしまう。
さらに秀吉も大和には信用できる身内を置いておきたいという考えから、定次は1585年、伊賀国上野城に移封された。
これは四国征伐の武功による加増と言われているが、実質は40万石から20万石もの減封である。
このため、筒井氏は家臣の多くを改易し、伊賀の土豪をも潰していかざるを得なかったといわれている。

定次はこの秀吉の仕打ちを恨んだのか、1600年の関ヶ原の戦いでは東軍に与して武功を挙げたことから所領を安堵され、伊賀上野藩を立藩した。
しかし1608年、幕命により改易され伊賀上野藩20万石は廃藩となった。
定次自身の身柄は鳥居忠政預かりとされた。
改易の理由は、定次が酒色に溺れて政務を顧みなかったこと、キリシタンであったことなどのほかに、筒井氏のような外様大名を畿内に置いておくのは危険と考えた幕府の有力外様大名取り潰し政策の一環とも伝えられている。

そして1615年、定次は大坂冬の陣で城方に内通したという責めによって、幕命により息子の筒井順定とともに自害を命じられた。
その後筒井定慶が大和郡山1万石を与えられたが、大坂夏の陣で定慶が戦死したため、大名としての筒井氏は滅亡した。

その後、順慶の養子順斎(福須美順弘の次男)が徳川家康に仕え旗本となり、1千石を与えられ家名は幕末まで続いた。
幕末に日露和親条約の交渉を行った筒井政憲はその末裔である(久世氏の出身で養子として筒井氏を継いでいる)。

[English Translation]