紀州徳川家 (Kishu Tokugawa family)
紀州徳川家(きしゅうとくがわけ)は、江戸時代に紀伊国・伊勢国を治めた徳川氏の一支系で、徳川御三家のひとつ。
紀伊徳川家とも称され、単に紀州家、紀伊家ともいう。
また初代頼宣が常陸国に封じられ常陸介にも叙任された。
そして、国持大名になった。
その故事にちなみ、紀伊国へ移封されたのちも頼宣の子孫は代々常陸介に叙任された。
このため徳川常陸介家と呼ばれることがある。
概要
徳川家康の十男徳川頼宣を家祖とし、江戸時代を通じて紀州藩の藩主であった。
第5代藩主吉宗と第13代藩主慶福が、それぞれ第8代征夷大将軍徳川吉宗、第14代将軍徳川家茂となっている。
徳川御三家のうちで征夷大将軍を輩出した唯一の家である。
紀州家の支系(御連枝)は、伊予国西条藩の西条松平家のみである。
しかし、吉宗が徳川将軍家の後嗣に入り新たに御三卿(田安徳川家と一橋徳川家、のちに清水徳川家が加わる。)を創始した。
そのことによって紀州家の血筋は大いに繁栄した。
将軍家・御三卿からさらに大名家に養子に出た者も非常に多い。
明治維新後は華族に列し、侯爵を授けられた。
戦前の紀州家は、日本でも屈指の富豪といわれ、戦後も第16代当主徳川頼貞は参議院に2期連続当選を果たすなど存在感を示した。
しかし、頼貞の生前の散財に加え、頼貞が1954年に没した後に借金返済のために遺族が興した事業は次々と失敗に終わり、更に家庭内のスキャンダルも重なったため、戦後はマスコミの格好の餌食となった。
なお、頼貞の嫡子である徳川頼韶が1958年に42歳の若さで亡くなり、それ以降は、家の名は頼貞の夫人や娘の女系によって名目上は保たれていた。
しかし、旧侯爵家としては事実上の断絶状態にあるとする記述も見受けられ、またいわゆる松平氏の子孫で構成される徳川・松平一門の会にも、現19代当主は会員と認められていないとの説もある。
歴代当主と後嗣たち
初代(藩主) 徳川頼宣
光貞(二代)
松平頼純(伊予国西条藩初代藩主)
二代(藩主) 徳川光貞
綱教(三代)
松平頼職(越前国丹生藩主、のち紀州藩四代藩主徳川頼職)
松平頼方(越前国葛野藩主、のち紀州藩五代藩主・八代将軍徳川吉宗)
三代(藩主) 徳川綱教
(実子なし)
四代(藩主) 徳川頼職
(実子なし)
五代(藩主) 徳川吉宗
1716年、八代将軍徳川吉宗として徳川将軍家へ養子。
六代(藩主) 徳川宗直(支藩西条藩から養子、吉宗の従兄弟にあたる。)
宗将(七代)
松平頼淳(西条藩五代藩主、のち紀州藩九代藩主徳川治貞)
七代(藩主) 徳川宗将
重倫(八代)
松平頼謙(西条藩六代藩主)
八代(藩主) 徳川重倫
治寶(十代)
九代(藩主) 徳川治貞
(実子なし)
十代(藩主) 徳川治寶
(実子なし)
十一代(藩主) 徳川斉順(元清水徳川家三代当主、十一代将軍徳川家斉の実子。)
慶福(十三代)
十二代(藩主) 徳川斉彊(元清水徳川家五代当主、十一代将軍徳川家斉の実子。)
(実子なし)
十三代(藩主) 徳川家茂
1858年、十四代将軍徳川家茂として将軍家へ養子。
十四代(藩主) 徳川茂承(支藩西条藩から養子、紀州藩七代藩主徳川宗将の玄孫。)
長福丸(早世)
紀州徳川侯爵家
十五代(侯爵) 徳川頼倫(田安徳川家から養子、夫人は十三代茂承の娘。)
頼貞(十六代)
十六代(侯爵) 徳川頼貞(戦後、参議院)
頼韶(十七代、早世)
戦後の紀州徳川宗家
十七代当主 徳川頼韶(頼貞長子、早世。)
十八代当主 徳川剛 (略歴は下記に記す。)
頼貞娘婿。
日系二世といわれていた青山由太郎の次男。
頼貞未亡人為子の養子となり、頼貞長女宝子とみこと結婚。
宝子は日比谷のビルの地下に「マルキーズ」(侯爵夫人)というレストランを開いたが経営に失敗。
剛とは1965年8月に離別
十九代当主 徳川宜子