京都 (Kyoto)
京都(きょうと、みやこ、きょうのみやこ、英語Kyōto、ローマ字Kyōto)は、日本の歴史的な都。
京、京師、皇都ともいう。
794年に日本の首都に定められた都城・平安京にあたり、日本の政治・日本の文化の中心地となった。
「京都」の由来
東アジアでは古来、歴史的に「天子の住む都」「首都」を意味する普通名詞として京(きょう)、京師(けいし)が多く使用されていた。
西晋時代に世宗(司馬師)の諱である「師」の文字を避けて京都(けいと)と言うようになり、以後は京、京師、京都などの呼び名が用いられた。
日本でも飛鳥京や恭仁京などが京都とも呼ばれた。
平安京は当初から京都とも呼ばれたが、定着したのは平安後期からで、京や京師という呼び名も併用されていた。
その後、次第に「京の都」(きょうのみやこ)、「京」(きょう)、「京都」(きょうと)が都市の固有名詞のようになり、定着していった。
京都と洛陽
古く京都は、しばしば中国王朝の都となった洛陽に因み、京洛、洛中、洛陽などといわれた。
元々は平安京を東西に分割し、西側(右京)を「長安」、東側(左京)を「洛陽」と呼んでいた。
ところが、右京すなわち「長安」側は湿地帯が多かったことなどから程なく廃れ、市街地は実質的に左京すなわち「洛陽」だけとなった。
このため京都を「洛陽」と呼ぶようになった。
京の都に上ることを上京、上洛と言う。
現在でも京都以外の地方(含東京)から京都へ行くことを「上洛する」「入洛する」ということが少なくない。
平安遷都
京都は、桓武天皇が784年(延暦3年)の長岡京に続いて、794年(延暦13年)平安京に遷都したことに始まる千年の都である。
京都に都が移された理由は諸説ある。
例えば、長岡京の建設責任者であった藤原種継が暗殺されたことや、奈良寺院の影響から脱するためであったや、天武天皇系の都を脱して天智天皇系の都を造るという意図説などである。
平安京は中国の風水に忠実に設計された都市で四方を山に囲まれ、東に鴨川 (淀川水系)が西に桂川 (淀川水系)が蛇行しながら南へと流れている。
内部は都城を模倣した長方形の区画をもっていた。
現在の千本通が当時の朱雀大路にあたり、真北には舩岡山が位置していた。
平安時代の律令制の形骸化にともなって次第に本来の領域にとらわれない、鴨川と大内裏・京都御所を中心とする都市になり、経済的に発展していった。
鎌倉幕府の設置
鎌倉時代にも京都の朝廷は政治機能を発揮していたが、東国支配を強めていた鎌倉殿に1185年守護・地頭の設置を認め、鎌倉幕府が全国支配を強めたため、京都は相対的に経済都市としての性格を強めた。
承久の乱を契機に鎌倉幕府は京に六波羅探題を設置して、公家勢力の監視を行う。
鎌倉時代末期に足利尊氏が京都の六波羅探題を滅ぼし、幕府滅亡後には京で後醍醐天皇による建武の新政が行われた。
その後新政から離反した尊氏が北朝 (日本)を立て、南北朝時代 (日本)となると、京都争奪戦が何度も行われる(南北朝分裂以後、南朝 (日本)による京都占領は4度行われたが、いずれも短期間で足利軍に撃退されている)。
室町幕府の設置
南朝が衰微して、室町時代になると京には室町幕府が置かれたために政治都市として復活する一方で経済発展を遂げ、町衆と呼ばれる有力市民による自治の伝統が生まれた。
足利義満は北小路室町(上京区)に花の御所と呼ばれる邸宅を建造し、応仁の乱で焼失するまで将軍家の在所となり、足利将軍は在所から「室町殿」と呼ばれた。
戦国時代・安土桃山時代
戦国時代 (日本)の端緒となる応仁の乱で市街、特に北側の大半が焼失し、その後もたびたび戦乱に巻き込まれた。
この頃、京都は上京と下京に分かれ、それぞれ「構」によって囲まれていた。
その間は畑になっていたといわれ、室町通でかろうじてつながっていた。
この後、織田信長、豊臣秀吉の保護と町衆の力により復興した。
特に、秀吉の都市改造は大規模なもので、聚楽第と武家町の建設、内裏の修理と公家町の建設、洛中に散在していた寺をあつめた寺町の建設などを行った。
現在でもしばしばその都市構造を確認することができる(→天正の地割)。
江戸幕府の設置
1603年3月24日(慶長8年2月12日)に徳川家康が征夷大将軍に任官され、江戸幕府の誕生とともに政治の中枢が江戸に移った。
しかしながら京都は都であることに変わりはなく、幕府の京都の拠点として二条城が築かれた。
また、文化工芸の中心地として人口が50万人を越え、政治の中心地の江戸や、経済の中心地の大坂に次ぐ都市として繁栄した。
又、江戸幕府は京都所司代・京都町奉行を設置して直轄下に置いた。
東京の設置と東幸
1867年11月9日(慶応3年)の大政奉還により、統治権が幕府から京都の朝廷に返上されて新政府が誕生した。
京都には京都府が置かれた。
しかし天皇が江戸で直接政治をみるため、江戸を東京として行幸・滞在(東京行幸)することになり、太政官(政府)も移動された(東京奠都参照)。
その後京都への還幸は延期され、明治天皇は1877年(明治10年)に京都御所の保存を命じた。
1879年(明治12年)には郡区町村編制法により、京都に上京区と下京区の2区が置かれ、続いて1889年(明治22年)に上京区・下京区は府管轄下の「京都市」となった。
現在の京都市は、伏見市をはじめとする周辺の市町村を編入したため、江戸時代以前からの伝統的な「京都」の範囲は、現在の京都市内の一部に過ぎない(京北町に至ってはかつては丹波国桑田郡の一部であった)。
また、戦前までは東京市様に京都市の大半は農地であった。
現在は世界有数の観光都市。
神社仏閣の本山を多数擁する。
なお、現在、名所・旧跡に立てられている案内碑は、そのほとんどが明治維新後に推定で置かれたものであり、必ずしも、実際の所在地と一致はしていない。
首都としての京都
旧皇室典範では「即位ノ礼及大嘗祭ハ京都ニ於テ之ヲ行フ」とあり、また天皇の所在を示す高御座が京都御所に安置されていることから、天皇の東京行幸以降も京都は依然として都で、特別な機能を有する都市である。
しかし明治時代以降は肝心の首都機能を消失していることも確かで、首都に関する議論を複雑にしている。
「京都は今でも首都である」とする意見がある。
例えば次のようなものがある。
京都とは普通名詞としては首都を意味し、東京は京都に対して東の京(東の首都)を意味しており、2つの都である京都と東京が首都である。
天皇の在所を示す高御座は現在も京都御所に安置されており、京都市が現在でも首都のままである(日本の首都を示すのは行政府の所在ではなく、高御座の置かれている処である)。
東京遷都の詔勅が発布されていない故、天皇制が存続する現在もなお京都が、公式に日本の首都である事実に変わりは無い。
問題点としては、京都は「都」(都・京)であるが、首都(capital)という語が使われるのは主に戦後以降のことであり、「首都」に法令上の定義・規定ないことがあげられる。
→日本の首都参照
洛中・洛外・京中
平安京の頃から、後の京都の基礎となった左京地域を唐の都・洛陽に擬えて「洛陽」と呼び、市内を洛中(らくちゅう)、外側を辺土、後に洛外(らくがい)と呼んだが(京都と洛陽を参照)、具体的な定義は曖昧であった。
平安時代には洛中は京職・検非違使の管轄であるが、辺土(洛外)は山城国国府の管轄と考えられていた。
鴨長明の『方丈記』の養和の飢饉に関する件には、京(洛中)を「一条よりは南、九条よりは北、京極よりは西、朱雀よりは東」と記し、続いて辺土として白河_(京都市)や西の京(西京/西ノ京、かつての右京地域)を挙げている。
辺土のうち、鴨川の東を河東と呼称し、白河や六波羅などがこれに該当した。
『吉記』治承4年11月30日 (旧暦)(1180年12月18日)条によれば、安徳天皇が平清盛の六波羅第に滞在中の高倉上皇の元に行幸しようとした際に、記主の吉田経房が辺土への行幸に神鏡を持ち出す事に異論を唱えている。
鎌倉幕府が六波羅に六波羅探題を設置したのも、平家滅亡後に、京都における北条氏の邸宅が置かれていたこともあるが、検断権を巡る検非違使との直接的な衝突を避けたことも理由に挙げられる。
後に河東は六波羅探題の異称にもなった。
正応元年6月10日 (旧暦)(1288年7月9日)の伏見天皇による殺生禁止の宣旨には、宣旨を適用する洛中の外側を「近境」と表現して、東は東山 (京都府)の下、南を赤江(現在の伏見区羽束師古川町)、西を桂川の東、北を賀茂の山と定めている。
鎌倉時代末期の朝廷や室町幕府が酒屋役を「洛中辺土」に課しており、応仁の乱の頃から辺土に替わって洛外という語が一般的になる。
室町時代から戦国時代_(日本)にかけて三条通を境目として北側を上京(かみきょう)、南側を下京(しもきょう)と呼ぶ慣習が生まれ、上京と下京がそれぞれ別個の惣構を持った。
豊臣秀吉の京都改造の際に1587年頃より洛中の太閤検地を行い、続いて1591年には京都中心部を囲うように土居を建設した。
また、土居の内側を洛中・外側を洛外として、洛中内部において更に農村として扱った上野・西ノ京・中堂寺・九条・塩小路などの村々を除いた洛中地域を特に京中(きょうちゅう)として上京・下京のそれぞれの町年寄(後に町代)による一定の自治を認めた。
これによって「惣組」(上京・下京)-「町組」(「組町」とも)-各町という近世京都の地縁共同体が形成される事になる。
その後、京中を越えて洛中全域そして洛外にも都市部が拡大し、1634年の征夷大将軍徳川家光の上洛を機に洛中全域と洛外の一部に地子免除が認められた。
1669年の京都町奉行の設置を機に、門跡寺院を除く寺社の管轄が町奉行となった。
また、直後に始まった鴨川 (淀川水系)の堤防設置工事にの完成(1670年)によって鴨川の河原が消えて水路化し、逆に五条以北の水路が消えたために洛中と洛外を区切る自然条件が大きく変化した。
それにより急激に洛中の北側に市街が広がって「洛中洛外町続」と呼ばれる都市の拡大のきっかけになった。
町奉行は町の拡大を抑制する方針を採ったが、実際には都市の拡大が先行して町奉行及び新しい町割の是非を審査する新地掛の与力がこれを追認する状況が幕末まで続いた。
この洛外にまで広がった上京と下京が近代以後の京都市の基礎となっていくことになる。
都市災害と文化財
京都市内には活断層の存在が確認され、歴史的にも大きな被害をもたらしている。
ところで、現在京都市内には、多くの木造建築物や仏像などの文化財が数多く現存しているが、その理由として、これらの文化財は昭和初期までほとんどが住宅地の外にあり、幾たびかの市街地からの延焼をまぬがれてきたから存在するとの研究結果が認知されつつある。
ところが、近時住宅地にのみこまれた文化財は、地震等による大火で失われる確立が過去に無いほど非常に危険な状態にあると危惧する声が有識者の中から上がっている。
また、それら文化財自体の地震などへの耐震性についても、現在の基準で判断すると問題のある建物も相当数あるが、解体修理は世紀単位で一度しかできず、莫大な費用を要する。
そのため、万一耐震不足と認定されれば、入場制限を強いられる恐れがあり、診断さえ行われない場合が多い。
小学校
日本における最初の学区制小学校は、国の学校制度創設(1872年)に先立ち、1869年に創設された64校の京都の番組小学校である。
これらの小学校のうち多くは統廃合されたが、22校は現在も残っている。
教育機関としての機能だけでなく、役所・警察・消防・保健所等の機能も併せ持っていた。
現在でも、番組小学校の学区は元学区と呼ばれ、自治会組織の単位となっている。