武蔵国 (Musashi Province)

武蔵国(むさしのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。
現在の埼玉県、東京都の隅田川より東の地域と島嶼を除く部分、および神奈川県の北東部(現在の川崎市全域と横浜市東部・沿岸部)を合わせた地域に当たる。
武州(ぶしゅう)と呼ぶこともある。

延喜式での格は国司国等級区分、遠国。

飛鳥京・藤原宮木簡には、无耶志国と表記。
また、7世紀頃までの武蔵は「无射志」(むざし)と表記されていた記録も見つかっている。

歴史

6世紀の武蔵国造の乱の後、7世紀に成立した。
胸刺(むざし)と无邪志(むざし)、知知夫(ちちぶ)が1つの国になったとされる。
武蔵国造の乱で献上された南部(多氷)に国府が置かれた。
当初は毛野国との関係で東山道に属し、東山道武蔵路が設けられていた。
708年(和銅元年)、秩父郡(ちちぶのこおり)で和銅(精錬の必要の無い自然銅)が発見された。
771年 (宝亀2年) 10月27日 (旧暦)に東海道に移された。

平安時代の927年(延長5年)に完成した延喜式によると、官営による4つの勅旨牧が置かれた。
これらは朝廷に毎年50頭の良馬を納めていた。
その後も勅旨牧は増設され、軍用品の生産地として重要視されるようになった。
中央から軍事貴族が派遣され、在庁官人が実務を担った。
対立もあり、939年(天慶2年)の源経基と武蔵武芝の争いは承平天慶の乱の遠因となった。

その後、牧の管理者の中から同族的武士団が生まれ割拠した。
それらは後の世に武蔵七党と呼ばれることとなる。
彼らは鎌倉幕府成立の大きな力となり、幕府を支えた。
反面、鎌倉に政権が置かれると、地元の有力勢力は排除され、南関東は政権のお膝元(関東御分国)として再編されていった。
周辺の国々では上総氏や三浦氏(和田氏)など有力在庁官人が滅亡した。
武蔵国でも比企氏、畠山氏 (平姓)が滅ぼされた。
秩父氏の力は衰え、北条氏得宗が実権を握った。
武蔵国は中小武士団が栄える国となった。

室町時代になっても状況は変わらなかった。
鎌倉には鎌倉府が置かれた。
秩父氏は武蔵平一揆の乱で力を失い、武蔵国の実権は関東管領上杉氏が握った。
武蔵国の中小武士団は武州南一揆や北一揆を結成した。

その後関東では室町幕府と鎌倉府の対立、鎌倉府と関東管領の対立、扇谷上杉家と山内上杉家の対立、両上杉家と家宰(太田道灌や長尾景春)の対立が続いた。
上杉禅秀の乱、永享の乱、享徳の乱、長尾景春の乱、長享の乱などの戦乱が起きた。
伝統的な豪族層が支配する北関東から武蔵国の国府を通って、鎌倉に抜ける鎌倉街道はしばしば戦場になった。
反面、武蔵国は六浦や品川湊などの良港を抱え、西国や内陸部に広がる「内海」との交易を活発に行っていた。

戦国時代_(日本)後期から後北条氏が大きな勢力を振るうようになった。
1546年(天文15)、河越城の戦いに勝利し覇権を確立した。
江戸城や川越城、岩槻城、鉢形城、滝山城(のちに八王子城)、小机城などに拠点が置かれた。
1590年(天正18年)、豊臣秀吉による小田原の役で後北条氏が滅亡。
以後徳川家康が江戸に移った。

江戸幕府開府以後は徳川政権のお膝元となり、日本政治の中心地となった。
1594年(文禄3年)に利根川東遷事業が始まった。
近世初期(1683年(貞享3年)また一説によれば寛永(1622年-1643年)に、下総国葛飾郡からその一部、すなわち隅田川から利根川(現在の江戸川下流)までの地域をあわせ、武蔵国の葛飾郡とした。
東京低地の開発が始まった。
1653年(承応2年)には玉川上水が完成し、武蔵野台地の開拓が進んだ。

1853年(嘉永6年)、黒船来航によって江戸をはじめ、武蔵国沿岸は脅威に晒された。
韮山代官所は危機感を強め、品川沖にお台場を建設し、多摩郡などで佐藤彦五郎を編成した。
八王子千人同心が動員され、近藤勇などが新撰組の中核を担った。
1854年(嘉永7年)、武蔵国神奈川の横浜村で日米和親条約(神奈川条約)が締結された。

明治維新とそれに続く東京奠都によって首都機能が山城国の平安京(京都)から、武蔵国の東京(旧江戸)に遷された。

国府・国分寺・国分尼寺・安国寺・利生塔・一宮以下・総社

国府は多磨郡にあった。
現在の東京都府中市 (東京都)にあり、関連施設が発掘されている。
国庁は現在の大國魂神社の敷地の東半分を西端とし、府中駅南側の市街地部分に存在したと考えられている(武蔵国府関連遺跡)。

国府津は、品川湊であったという説がある。

国分寺は現在の東京都国分寺市西元町にあった。
その法燈を継承する寺院として同地に医王山最勝院国分寺(本尊:薬師如来)がある。
国分尼寺は未詳。
安国寺は東京都府中市片町の龍門山等持院高安寺(本尊:釈迦如来)と埼玉県越谷市大泊の大龍山東光院安国寺(本尊:阿弥陀如来)が法燈を受け継ぐ。
利生塔は未詳である。

延喜式神名帳には大社2座2社・小社42座の計44座が記載されている。
大社は足立郡の氷川神社と児玉郡の金佐奈神社(現 金鑽神社)で、どちらも名神大社に列している。

総社は大國魂神社 (府中市)(東京都府中市宮町)で、別名・六所宮と称し、武蔵国内の一宮から六宮までの祭神が祀られている。

一宮 小野神社 (東京都)(東京都多摩市一ノ宮。
主祭神:小野大神=天下春命)

二宮 二宮神社(東京都あきる野市二宮。
主祭神:小河大神=国常立尊)

三宮 氷川神社(埼玉県さいたま市大宮区高鼻町。
主祭神:氷川大神=須佐之男命、稲田姫命)

四宮 秩父神社(埼玉県秩父市番場町。
主祭神:秩父大神=八意思兼命、知知夫彦命)

五宮 金鑽神社(埼玉県神川町二宮。
主祭神:金佐奈大神=天照大神、素盞鳴尊)

六宮 杉山神社(比定社が複数あるが、多くは横浜市内に集中する)

上記のように、一宮は元々は小野神社であったが、戦国時代 (日本)にそれまでの三宮の氷川神社が並存するようになった。
氷川神社が一宮と称されるようになってからは、五宮の金鑽神社が二宮とされるようになった。
また、さいたま市緑区 (さいたま市)宮本の氷川女体神社も元は氷川神社から分かれたものであり、江戸時代以降一宮とされるようになった。

[English Translation]