福知山市 (Fukuchiyama City)

福知山市(ふくちやまし)は、京都府北部(旧丹波国)の丹波地方に位置する京都府下で2番目に出来た市である。

概要

福知山市を含む周辺地域では縄文時代の始め頃から人が住んでいたといわれ、広範囲において数多くの古墳やその住居跡が出土したことから、かつては多数の有力豪族が居たと考えられている。
それ以降は土地のほとんどが荘園として利用されたため主だった中心地はなかったが、戦国時代 (日本)になると丹波平定の命を受けた明智光秀が塩見信房を倒し、その居城であった横山城を大修築し近世型の福智山城(後の福知山城)とした。
福知山は後にその城下町として発展を遂げた都市である。

光秀はたびたび大氾濫を起こしていた由良川の治水に成功し、現在もなお行われている築堤工事は彼に始まる治水事業の歴史を連綿と受け継ぐものである。
光秀はそれに加え地子銭を免除するなどの善政を敷いたことから、その治世がわずかであったにもかかわらず後には御霊神社 (福知山市)に祀られ市の花も明智氏の家紋であるキキョウとするなど、福知山における光秀への信望はあつい。

明治時代に入ると日露戦争を控え、京阪神と日本有数の軍港である舞鶴港とをつなぐ交通網の普及が急がれた理由から、福知山はその中継地点として軍用鉄道の福知山線の整備がなされた。
更にその11年後には山陰本線も整備され、県庁所在地以外としては珍しく鉄道管理局が置かれたことなどもあって福知山は「鉄道のまち」として栄えた。
1987年(昭和62年)ごろからは遅れていた高速道路も整備も成され、その交通の利便性などから拠点を置く多数の大手企業が存在し、それらは福知山都市圏を構成し福知山市はその中心を担う。

一方特産品の藍染め品や藍染品などのさまざまな農産品を生産し、それらを扱う商いのまちとして栄えてきた福知山は、後継者不足などの問題によりそれらの産業は衰退しほぼ完全に消滅してしまった。
現状としては内陸型工業団地としては比較的大規模な長田野工業団地が高度経済成長を経た1974年(昭和49年)に整備着手がなされたことによる、工業や商業が主な福知山の産業になっているが、それらのかつての伝統と歴史を復活させようと総合的な学習の時間で学ばせる教育機関や、そういった活動の趣旨の民間団体が結成されるなどの動きも見られる。

市章

現在の福知山市章は、1938年(昭和13年)12月に公募により二千点近くの中から選ばれ制定されたもので、「ふくちやま」の頭文字である「ふ」をカタカナにし、それを九つ並べて図案化されたものであり、その図案はフ九」つまり「福」をこの市章は表している。
1967年(昭和42年)に制定された福岡市の市章も同様の理由でカタカナの「フ」を九つ並べて図案化されており、その点に関しては共通点があるといえる。

ドッコちゃん

ドッコちゃんのドッコとは、福知山音頭にたびたび繰り返される「ドッコイセ」という独特のフレーズから由来し、ドッコちゃんはその踊り子をモチーフにしたものである。
更にこのドッコイセというフレーズはとは福知山城築城の際、その石垣を運んだ際の掛け声が由来とされている。

酒呑童子

大江山には酒呑童子が住んでいたとされる鬼伝説があり、商工イベントとしての「鬼まつり」などが開催されるなど、鬼は親しまれてきた。
麓の大江町(合併前は自治体の町)では、鬼を核としたまちづくりが行われ、成田亨デザインの鬼像や、鬼瓦の回廊、鬼の博物館など鬼にまつわるものが多数存在する。
酒呑童子は合併後も市のキャラクターに引き続がれた。

光秀くん、ひろこさん

福知山観光協会のイメージキャラクター。
明智光秀とその正室である明智煕子がモデルとなっており、忍たま乱太郎の作者で知られる尼子騒兵衛がデザインしたものである。

年表

戦国時代 (日本)から江戸時代まで(1467年~1867年)

1579年(天正7年) - 明智光秀が丹波を平定(横山城攻略)する。

1580年(天正8年) - 福智山築城によりこの地を「福智山」と改める。

1600年(慶長5年) - 有馬豊氏により藩が設置される(城下町はこの時代において形成されたと思われる)。
以後、江戸幕府においての福知山藩(明治時代の府藩県三治制時の名称)となる。

明治から第二次世界大戦まで(1878年~1945年)

1871年(明治3年) - 廃藩置県により福知山県となる。

同年11月 豊岡県に統合される。

1876年(明治9年) - 豊岡県は兵庫県と京都府に分割統合、京都府天田郡となる。

1889年(明治22年) - 町村制により福知山町となる。

1898年(明治31年) - 旧陸軍歩兵第20連隊が駐屯開始をする。

1899年(明治32年)7月15日 - 福知山線の柏原駅 (兵庫県)~福知南口駅開通により、大阪~福知山間全線が開通する。

1910年(明治43年)8月25日 - 山陰本線の園部駅~綾部駅開通により、京都駅~福知山駅全線が開通する。
上記の1899年(明治32年)の大阪~福知山間全線開通とあわせて、福知山駅が市の中心駅として担うようになる。

1918年(大正7年)- 福知山町に曽我井村を編入する。

1936年(昭和11年) - 市制施行を念頭に庵我村・雀部村・下豊富村を編入する。

同年5月 - 初代福知山市長として高木半兵衛が就任する。

1937年(昭和12年)4月 - 市制施行により福知山市となる。
当時の人口は3万2千人程度であった。

1938年(昭和13年)12月 - 公募により全国から集められた約2000点の作品の中から、福知山市市章が制定される。

1940年(昭和15年)6月 - 2代目市長として岸本熊太郎が就任する。

1942年(昭和17年)7月 - 3代目市長として田中庄太郎が就任する。

第二次大戦から昭和末期まで(1946年~1988年)

1946年(昭和21年)6月 - 4代目市長として竹内正夫が就任する。

1948年(昭和23年)3月10日 - 後に福知山名誉市民となる芦田均が内閣総理大臣に就任する。

1949年(昭和24年)4月 - 上豊富村・下川口村・西中筋村を編入する。

1950年(昭和25年) - 旧日本国有鉄道福知山鉄道管理局(現西日本旅客鉄道福知山支社)を開設する。

1951年(昭和26年)4月 - 5代目市長として牧野源太郎が就任する。

1954年(昭和29年)3月 - 後に現在の福知山市の中心駅となる福知山駅が完成する。

同年8月 - 6代目市長として天野博が就任する。

1955年(昭和30年)4月 - 上、中、下六人部(むとべ)村・上川口村・金谷村・金山村・雲原村・三岳村、計8つの村を福知山市に編入する。

同年11月 - 市ガスの供給を開始する。

1956年(昭和31年)9月 - 何鹿郡佐賀村が分村し編入する。

1959年(昭和34年)6月 - 福知山市出身の内閣総理大臣である芦田均が死去すると同時に、史上初の福知山名誉市民として選ばれる。

1962年(昭和37年)8月 - 7代目市長として塩見精太郎が就任する。

1983年(昭和58年)6月 - 福知山市出身の文部大臣である谷垣専一が死去すると同時に、史上2番目の名誉市民として選ばれる。

1988年(昭和63年)6月 - 福知山市歌を制定する。

平成以後(1989年~)

1990年(平成2年)8月 - 8代目市長として中村稔 (市長)が就任する。

1991年(平成3年)4月 - 7代目市長であった塩見精太郎が名誉市民に選ばれ、市の花、鳥、木とあわせて市民憲章が制定される。

1993年(平成5年)4月 - 福知山市出身の日本画家である佐藤太清が、名誉市民として選ばれる。

2004年(平成16年)6月 - 現職の市長である高日音彦が9代目市長として就任する。

2005年(平成17年)11月 - 福知山市を走る鉄道は福知山市街地を南北に分断する形に走っていたため、市街地の移動には非常に不便であった。
その解消策として中心駅である福知山駅とその周辺の路線を高架化する。

2006年(平成18年)1月1日 - 大江町 (京都府)・三和町 (京都府)・夜久野町の3町を編入市町村合併して、新しい福知山市が誕生する。

鎌倉時代以前

綾部市や舞鶴市など周辺の地域を含め、この地では考古学上貴重な資料ともなる大小さまざまな多数の古墳や副葬品などが出土している。
福知山市内からは古くは縄文時代初期のころのものが出土していることから、既にそれ以前にはこの地に人が住んでいたことや、多くの有力豪族がこの地一帯を統治していたことが考えられている。
福知山市の場合、それを示唆するものの一例として国の重要文化財にも指定された盤龍鏡と呼ばれる「景初四年」の年号が刻まれた鏡の出土があげられる。

しかしこういった遺跡や住居跡などは平安時代初期にかけてまでしか見つかっておらず、こういった勢力は飛鳥時代の終わりごろに滅亡していったと考えられている。

平安時代になると摂関家領の荘園として利用されるようになり、後期には天田郡(あまだごおり)のほとんどが荘園として利用されるようになった。
鎌倉時代に入ると多数の守護や地頭が送り込まれたために、その荘園もやがて彼らの物に変わっていった。

室町時代

室町時代後期になると、小笠原氏の小笠原長清の末裔とされる小笠原頼勝は、福知山盆地の中央部に位置する「横山」と呼ばれた丘陵地に簡素な空堀と土塁だけで出来た福知山城を築きあげた。
のちに小笠原頼勝は塩見頼勝と名を改め、その子塩見頼氏が横山城等を拠点としてこの地を統治するようになる。

戦国時代

戦国時代 (日本)に入ると、塩見頼氏は子の塩見信房に横山城を譲り、彼が福知山を統治するようになる。

しかし1579年(天正7年)8月に織田信長に丹波平定を命ぜられた明智光秀は横山城を攻め落とし、城主の塩見信房は自害し果て、塩見氏の福知山統治は終焉することになる。
光秀は褒章として丹波の国を与えられ、同時にこの城を城代に命じて大改修を行った。
光秀はこの改修後の城を「福智山城」と改め、ここに福知山の地名が誕生する。
更に光秀はそれまでたびたび氾濫を起こしていた由良川の流れを改善し、度重なる洪水によって疲弊していた農民に対し地子銭を免除するなど善政を敷き、城下町としての基礎を築いたのであった。

そのわずか3年後の1582年6月に光秀は本能寺の変を起こし一時天下人になるも、山崎の戦いにおいて豊臣秀吉に敗れ落命し、明智氏は滅亡する。
福知山を含む丹波国一体は秀吉の支配下に置かれ、秀吉の家臣の小野木重勝(小野木重次、小野木重勝ともいう)や杉原家次らが、秀吉の命により福智山城城主となり統治するようになる。

重勝は秀吉の没後、徳川家康と石田三成とが対立すると三成に味方し、1600年(慶長5年)には家康方の細川幽斎が守る田辺城を攻め落城させた(田辺城の戦い)。
関ヶ原の戦いにおいて三成が敗れたことにより逃亡、細川忠興に追い討ちをかけられ自害した。

江戸時代

関ヶ原の戦いにおいて徳川家からその功績を認められた有馬豊氏は、横須賀藩から石高を増やしたうえで福知山へと国替を命ぜられた。
有馬豊氏は検地を行い、今でもその名残を残す近代的な町割りを行い城下町を築き上げた。
こうして福知山市の前身である石高六万石の福知山藩が立藩されたのである。

その後有馬豊氏は更に大坂の役においてもその功績を認められ、久留米藩へと国替を命ぜられこの地を去り替わって小堀政一や遠国奉行伏見奉行などによって統治されるようになるが、以降この地を統治していた領主は国替えや改易によってたびたび交代がなされるようになった。
その間1649年(慶安2年)に福知山藩に入った松平忠房が行った検地は、地租改正が行われるまで福知山の土地制度の基準となったためこれを松平検地と呼ばれる。

1669年(寛文9年)に朽木稙昌が藩政を務めるようになって以後、十三代にわたって朽木家が藩政を務める様になり、藩主が五代目朽木玄綱になると地名を「福智山」から「福知山」に改め、「明智光秀の治水によって水害から救われ、城下町として栄えたのは彼のおかげである」という住民の連署によって御霊神社 (福知山市)に光秀の合祀を許したのであった。

一方このときの福知山藩の財政状態は朽木家二代目朽木稙元を始めとして苦しいもので、その建て直しをはかってたびたび財政改革を行おうとするものの、たびたび百姓による強訴が起きるなど失敗に終わってしまうのであった。
強訴においては特に享保の大飢饉を発端とするものと、1860年に起きたものは大規模なものであった。

明治時代

廃藩置県により1871年(明治4年)7月14日に福知山藩は撤廃となり福知山県となる。
その後豊岡県に統合、分割を経て町村制施行により福知山町が誕生する。

このとき日本は日露戦争を控え、京阪神と日本有数の軍港である舞鶴港をつなぐ交通網の普及が急がれたことから、福知山はその中継地点として福知山線と山陰本線の敷設が行われた。
同時に大日本帝国陸軍歩兵第20連隊は、このときから現在の福知山駐屯地に駐屯するようになる。

このとき但馬(丹波)牛の集散地としてや、以前から行われていた由良川河畔での桑の栽培が盛んに行なわれようになり軍需産業としても養蚕業が栄え繊維関係での中核地として栄えるようになる。

昭和

昭和に入ってまもなく福知山の養蚕業は全盛期を迎える。
更に福知山町は庵我村・雀部村・下豊富村を編入し、人口が約3万2千人の福知山市が誕生する。
このとき福知山市章も制定され、後に福知山市史上初の名誉市民となる福知山出身の芦田均が内閣総理大臣に就任する。

しかし時代が進み第二次世界大戦が終わり日本が高度経済成長を向かえると、上記の養蚕業や藍染めなどの文化はほぼ完全に衰退していった。
1974年(昭和49年)に長田野工業団地の整備が始まるようになると、福知山の産業は工業化の兆しを見せるようになる。

平成以降

それまで福知山市内を走る鉄道は、南北に分断するように走っており市内の交通を阻害するものであった。
そこで総事業費約350億円をかけて福知山駅の高架化が行われる。
また平成の大合併と呼ばれる市町村合併ブームに乗って、周辺自治体であった三和町・大江町・夜久野町と市町村合併を行った。

地理

市域は旧丹波国天田郡を中心とし何鹿郡(佐賀村の一部)と丹後国与謝郡(雲原村)と加佐郡(大江町)に広がり、市域面積の76%は林野が占め耕地面積は7%程度で
、綾部市から続く福知山盆地を中心とした平地、それをとり囲む市域面積の大部分を占める山地で構成される。

大阪市からは約70km、京都市、神戸市からは約60km、豊岡市、舞鶴市から約30kmの場所に位置する。
市内最高海抜は三岳山の839.17mにまで及び、最低海抜は7.11mである。
市街地は旧城下町を中心とし、由良川沿いに長田野工業団地周辺の住宅地まで伸びる。

主な山川

山:三岳山(市の最高峰)、千丈ヶ嶽(大江山連峰の主峰)、烏ヶ岳(市内唯一の一等三角点)、田倉山(宝山、京都府下唯一の第四紀火山)
川:由良川、土師川、牧川

隣接する自治体

京都府 舞鶴市、綾部市、宮津市、与謝郡与謝野町(旧加悦町・野田川町)、船井郡京丹波町
兵庫県 丹波市、豊岡市、朝来市、篠山市

姉妹提携都市

日本国内
長崎県島原市(1983年3月1日姉妹都市提携)
当時の福知山藩主であった松平忠房 (島原藩主)が、1669年(寛文9年)の国替えによって島原藩(現在の島原市)に移り住んだのがきっかけとなり姉妹都市となった。

日本国外
なし

地名の由来

福知山という地名は明智光秀の城改修の際に名付けられた「福智山」に由来する。
和泉式部の歌「丹波なる 吹風(ふくち)の山の もみじ葉は 散らぬ先より 散るかとぞおもう」から取り、これに明智の「智」の字を当てたという説や、或いは富士山由来の名(別名)によるとの説も存在する。
福智山の「智」は1728年(享保13年)に朽木氏によって「知」の字に改められた。

街区

旧福知山市内には地名(字・小字)、自治会名、通称など複数の街区名が存在し、なおかつ自治会名は必ずしも別名称の街区の範囲と一致しないため非常に複雑である。
(例:自治会名「岩井新町」の街区は字「岩井」と「荒河」にまたがる。
通称「かしの木台」で呼ばれる地域には「岩井新町」「荒河」が含まれ、その組合わせ名で住所が表記されることがあり、更に自治会名「かしの木台○丁目」も存在する。
など多数) これは、昭和期に入り旧城下町周辺に急激に新市街地が広がったのに対し、それらの字名を整理しないまま街区名や自治会名をつけていった結果である。
(例:「字天田小字木村」には、通称「末広町1丁目」の街区があり、自治会名「南本町」で呼ばれる住所がある)
このため7桁郵便番号は自治会名の街区で分類されふられているが、自治会名を用いない住所で検索すると該当するものを探すことができないという不便が生じている。

かつての福知山は川を利用した水運による流通が盛んで、由良川沿いには港を意味する「津」が付く「天津、高津江、常津」などの地名が数多く存在する。
同じく「和久市」は川沿いにあり、水運によりこの付近に市場が出来たことの名残である。

気候

基本的に日本海側気候であり旧三和町を除いて豪雪地帯である。
旧丹後地域(雲原・大江)を除く盆地においては“やまかげ”となり、丹後地方に比較して量は少なめである(平地でも年間4~5日は30cm程度の積雪がみられる)。
また盆地地形により秋と冬には霧が発生する。
特に冬期の早朝の山間部では霧が濃く路面の凍結も見られる。
晴天時の午前中の霧、冬季の雪雲によって日照時間が少なくなることから、文字通り「山陰」の暗いイメージを拭い切れない。

平地(福知山地域気象観測所)の平均気温は14度程度、年間降水量は1500ミリ程度で年間日照時間は1400時間程度である。
降水量の季節分布としては旧丹後地域では降雪を中心に冬季雨量が多いが、以南では梅雨・台風により夏季雨量のほうが多くなる傾向がある。

福知山盆地内

盆地内を中心に少量で限られた地域ではあるが、淡水に住む貝の貝殻の化石が出土している。
貝殻の種類に加えその分布などから、2~30万年前の氷河期には福知山盆地内全てが湖あるいは沼の底であったと考えられている。
この湖(沼)は福知山湖と呼ばれる。
また、各河川流域の調査から、かつて由良川は土師川(竹田川)を介して加古川につながり南下していたと考えられる。
これらから、地形の沈降により南下の流れが止まったことで盆地一帯は湖沼を形成、さらなる変化により日本海側への流路ができると湖沼の水位は下がりやがて消滅、現在の市内を流れる由良川、土師川、牧川などに変化していった、という経緯が考えられている。
盆地内の河川勾配が非常に緩く、出口付近がボトルネックとなって大雨時に停滞し度々洪水を引き起こす(福知山と由良川)というのは、こういう形成履歴を持つためであろうと考えられる。
また、これらの名残としては、由良川上流域に当たる船井郡京丹波町安栖里(あせり)周辺の4段にもなる大規模な河岸段丘の存在、市内の長田野(おさだの)の高位段丘面を持つ洪積台地の存在などがある。

また羽合の丘陵地や長田野台地には、福知山層とよばれる砂と泥と礫(れき)で構成される地層を見ることができる。
その名のとおり福知山を特徴付ける地層であり、近畿地方の山間盆地埋積層を特徴づける学術上価値を持つ。
しかし宅地開発が進む中、この地層の存在は危うくなっており京都府レッドデータブックに登録されている。

福知山盆地外

一方、福知山盆地外にあたる夜久野町額田(ぬかた)からは約2億2千万年前の新種のアンモナイトの化石が出土している。
出土した地名にちなんで「ヤクノセラス・ヌカタエンゼ」と名付けられた。
アンモナイトは本来海底に生息する生物であることから、かつての海底が隆起したものと考えることが出来るが、詳しい地形形成履歴は分かっていない。

また市内夜久野町小倉に所在する田倉山は夜久野高原を形成した京都府下唯一の火山であるが、そのふもとには柱状節理の玄武岩を見ることができる。

この地ではかつてさまざまな鉱物が産出されており、特に大江山は金属鉱脈が多く河守鉱山では銅鉱・黄銅鉱・硫化鉱・クロム鉄鉱・銀鉱が、また仏性寺鉱山ではモリブデン(水鉛)が採掘された。
また上川口地区の富国鉱山は国内有数のビスマス鉱山であった。
(なお大江山ニッケル鉱山は、与謝野町域にあたる。
)このほか現在廃坑となっているいずれの鉱山も、京都府レッドデータブックに登録されており、坑道の整備、保存の必要性が叫ばれている。

福知山と由良川

かつての由良川の流れは現在の福知山駅周辺にまで流れており、また大雨が降るたび氾濫を起こし周辺の人々や建物に加え農作物などに深刻な被害をもたらす暴れ川であった。

明智光秀が福知山を統治するようになると、光秀は後に城下町ともなる城に連なる居住地造営と治水のため、長さ1kmにも及ぶ築堤により川筋を大幅に変更したことにより由良川の流れは大幅に改善されたが、それでも洪水は収まらずその後の為政者も治水に尽力を惜しまなかった。
彼の築堤の名残として「明智藪」と呼ばれる堤防保護のための藪を今もなお見ることができ、現在もなお行われている堤防築造や国土交通省などによる水位の監視などは彼に始まるものである。

例えば1896年(明治29年)と1907年(明治40年)に起きた大雨による氾濫は、両者とも同じ堤防が決壊したことにより市街地は2階まで床上浸水し、水が引くまでは屋根の上で生活し移動も船でという状況だった。
後者は前者と比べて教訓が生かされたこともあって被害が少なかったものの、どちらも市街地はほぼ壊滅状態にまで追いやられた。
同時に由良川に架かる橋であった音無瀬橋も2度流され、その費用補填のために大人4厘、子供2厘、牛馬は5厘という通行料を徴収したほどでもあった。
加えて1953年(昭和28年)9月25日の昭和28年台風第13号を起因とする由良川の氾濫は、最高水位が7.8mにもなる大量の水が福知山市街地全域を水浸しにし、市内で死者は約40名、負傷者は約900名、家屋全壊、半壊ともに1100戸以上、床上浸水においては5300戸以上もの被害をもたらした。
この台風のときの被害は地元では28水(28災とも)として知られ、このときの水位は福知山と水害を伝える資料として市内御霊公園にはそれを示す標識が設置されている。

その恐ろしさや先人の築いた堤防のありがたさを後世に伝えるため、御霊神社 (福知山市)境内には全国唯一の堤防そのものを御神体とする堤防神社が建立されており、1931年(昭和6年)以降の毎年8月15日には、神輿が市内を巡回する「堤防祭り」が行われている。
現在の「ドッコイセ花火大会」は、もともとはその祭りの行事の一つとして始まったものである。
また旧市街地の町屋には、浸水時に家財を2階や小屋裏に引き上げる滑車を備えた「タカ」と呼ばれるこの地独特の吹抜けが残されている。
他にも尾藤橋、三河橋などに代表される沈下橋の存在や、福知山市施設などでも当時をかたるさまざまな資料が残されており、水害と共に生きてきた市民の歴史を知ることができる。

しかし由良川は国土交通大臣が国民経済上特に重要な河川などに対して指定する一級水系に指定されているとおり、市内に供給される浄水場の原水や農業用水としては勿論のこと、今では市民の手による鮎や鮭の稚魚の放流といったイベントが開かれるなど、市民の生活には欠くことのできない川である。

旧市街地

旧市街地でもある福知山の城下町は、明智光秀が地子銭と呼ばれる土地税を免除したことなどから、早くから商工業が栄えた。
江戸時代になると有馬豊氏によって城下町としての町割りが整備されたが、現在でも呉服町、鋳物師町、鍛冶町、紺屋町などはそのままの地名として残されており、旧市街地は江戸時代の町割りが殆どそのまま残っている。
ただ、寺町には文字通り多数の寺が所在するが、現在ではその地名に呉服屋や染物屋を構える店はなくなっている。
(新市街地の問屋町や厚中問屋町は1975年(昭和50年)に行われた区画整理で新しくできた地名であるが、こちらは文字通り多数の卸売業者が軒を連ねている。)

前述の町屋や、大正から昭和初期にかけては木造3階建ての料亭や旅館が多数建設され、老朽化や都市計画による道路拡張などにより、城下町の風情でもあった珍しい木造建築は姿を消そうとしている現状もある。
かつては複数の商店街で賑わった「商業のまち」の趣も、全国の例に漏れずシャッター通りと化しており現在ではほぼ居住地域となっている。
しかしなおも本社や本店事務所を旧市街地に置く事業所も多く、多数の「社長が住まうまち」ではある。

中心市街地と呼ばれる区域には、これら旧城下町の西に広がる福知山駅を中心とする新市街地エリアがある。
駅前には地元企業による都市型大型店が立ち上げられ、高度成長期には賑わいを見せた。
その後も複数の区画整理地には新規事業所が建ち並び、現在の市街地を形成していった。
旧来の商業地は近年の国道沿いの郊外型大型店やロードサイド店舗に押された形となったが、北近畿の都をキャッチフレーズに駅の高架化や未開発の駅南を含む駅周辺の整備を進めることで、中心市街地活性化につなげようとしている。
しかしながら、旧城下町の活性化を含め依然として難題を抱えている。

郊外

周辺部には、郊外型ショッピングセンターのジャスコなどを擁した開発地や、旧町の集落が見られるが、大部分は多数の田畑が広がる。
地形的には山地が多く、クマだけでなく、シカやイノシシなどの多数の野生動物が生息している。
福知山の特産品である丹波栗などを含む農作物が狙われ、年度によって深刻な被害を農家へもたらすこともあり、檻の共同オーナーを募集するNPO法人も存在する。

旧日本軍

現在の陸上自衛隊第7普通科連隊が駐屯する福知山駐屯地には、かつては大日本帝国陸軍歩兵第20連隊の駐屯地があった。
福知山線や山陰本線は、国内有数の軍港である舞鶴港と京阪神をつなぐ鉄道として軍事的理由によって整備促進されたという側面もあり、その中継地点である福知山は軍事都市としても栄えたといえる。

太平洋戦争末期には旧日本軍大日本帝国海軍の「石原飛行場」と呼ばれる航空基地も存在しており、その滑走路は現在の中丹広域農道沿いに市内前田から石原をまたぎ戸田にまで伸び、長さはおよそ1700メートルにもおよんでいた。
しかし戦争が終わると地元の農民が自力でその滑走路のコンクリートを剥がし農地に復興させたため、今ではその姿を見ることは出来ないが周辺には物資格納倉庫に加え、敵機を撃墜させるための高射砲も存在し、米軍の機銃掃射の攻撃対象にもなっていた。
全体計画の完成には至らず、主に練習場の用途であったが、もう少し戦争が長引いていれば福知山市も空襲の対象になっていたのではないかともいわれるほど、当時の軍事拠点でもあった。

この飛行場付近には、兵士の避難所や待機所を兼ねた掩体壕(えんたいごう)と呼ばれる鉄筋コンクリート製の半地下式防空壕が作られた。
幅が約1.5メートル、長さが約10メートルにも及ぶかまぼこのような形をした大きな壕で、戦後は農機具庫として利用されていた。
「福知山市と大戦」を伝える重要な資料の一つであり付近住民の署名運動などの反対の声もあったが、農地整地のため2007年1月に取り壊しが行われた。
その欠片の一部は市内の公民館敷地内に保存されたとはいえ、戦争当時の様子を伝えるものがまた一つ失われたともいえる。

自衛隊

第二次世界大戦が終わった後でも、福知山は京阪神と舞鶴港をつなぐ軍事的中継地点としての役割を受け継いでいる。
上記のとおり福知山市には福知山駐屯地が存在し、第7普通科連隊が駐屯する。
また陸軍演習場も備えており京都府と兵庫県の北部を警備担任区域としている。

自衛隊は市内の年中行事の開催の協力、災害時の救助などにおいての役割は重要である。
例えば2004年の平成16年台風第23号災害の救助活動や、福知山マラソン設営、「姫髪山の送り火」も大文字山として整地できたのは自衛隊の協力があったからこそである。

産業

産業人口
第一次産業:約 2,000
第二次産業:約12,000
第三次産業:約21,000
主な産業
卸売業、小売業、製造業、建設業

主な企業

北近畿の各市や舞鶴港と京阪神双方へのアクセスが良く、経営の三要素の「人、物、金」のうち「人」と「物」の移動が容易である。
このため、この福知山を拠点と捉えて支店や営業所を置く企業も多い。
市内に所在する日本有数の内陸型工業団地の長田野工業団地や、アネックス京都三和(愛称:エコートピア京都三和)工業団地には東京証券取引所ならびに大証や、ジャスダックなどに株式上場している多数の企業またはその子会社が拠点を置いており、それが与える地元の雇用の影響は大きい。

本社

非上場企業
天藤製薬
痔の薬として知られるボラギノールを製造する企業で、営業拠点として大阪市中央区 (大阪市)にも本社を持つ。
製品の全ては長田野工業団地の工場で生産される。
武田薬品のグループ企業として、その子会社である武田ヘルスケアと提携している。

株式会社さとう (京都府)
1666年(寛文6年)創業の北近畿を代表する小売業業者。
地域に根付いたスーパーマーケット業を主力とする。
全店舗数は45にも登り、ホームセンター、衣料専門店、飲食業だけでなく、更には保険や旅行、宅配の代行業務などの幅広い事業を展開する。

メガネのマキノ
眼鏡販売の老舗企業。
会社は小規模ながらも、1894年(明治27年)創業の歴史を持つ。

西山寛商事株式会社(スーパーマーケットNISHIYAMA)
スーパーマーケット事業を展開する企業。
特徴ある販売法でテレビ番組の特集(ムーブ!)として取り上げられたことも。

北近畿タンゴ鉄道
京都府などが出資する第三セクターの鉄道会社。
宮津線、宮福線を管理する企業である。

両丹日日新聞
福知山市域の話題を扱う地方紙。
夕刊のみ発行される。

福知山FM放送
愛称「FM-CASTLE」。
コミュニティ放送局。

支社

上場企業
西日本旅客鉄道福知山支社
旧国鉄時代の福知山鉄道管理局の流れを汲む支社。
福知山線の新三田駅以北と山陰本線の園部駅~居組駅、舞鶴線、播但線を管轄している。

株式会社たけびし
三菱電機を取り扱う大証2部上場の商社。
福知山の支社は畿北支店と名づけられており、その名の通り北近畿一帯をカバーしている。

工場

福知山に所在する工場のほとんどが長田野工業団地に集中しており、数多くの企業が立地する。

上場企業
エスペック株式会社
物の耐久テストを行うための、環境試験機とよばれる機械を生産する大手メーカー。
アジアを中心とする経営基盤を持ち、環境試験機の国内シェアは約60%という高水準の占有率を誇る。
日本国内に供給される全ての環境試験機はここで生産される。

日本ピラー株式会社
パッキンなどの液体の漏れを防ぐ「シール」を生産する大手企業。
工業用においての金属シールのシェアは首位で、シール業界全体で見ても4番目の規模を持つ。
福知山市以外にも兵庫県三田市と熊本県合志市に大規模な工場を持つ企業である。

タツタ電線株式会社
東証及び大証1部上場の電線及びケーブルを主力製品とする企業。
日本国内には工場が福知山市にしか存在せず、製品の全てがここで生産されている。

扶桑化学工業株式会社
ジャスダック上場のリンゴ酸やクエン酸などを生産する国内有数の化学薬品メーカー。
日本国内には工場が福知山市にしか存在せず、製品の全てがここで生産されている。

SECカーボン株式会社
大証2部上場の大手炭素製品メーカー。
長田野工業団地内最大の土地を所有し、京都府下で最も消費電力が大きい企業でもある。
アルミニウム製錬用黒鉛電極の世界シェアは約45%で、主力製品の全てはここで生産される。

日立マクセル株式会社
maxellブランドで知られるDVDやコンパクトディスクなどを制作する大手記録メディアメーカーで、日立製作所の子会社でもある。
福知山の工場は主に磁気テープなどを中心に製作する主力工場となっている。

非上場企業
ヒエン電工株式会社。

電線メーカー。
船舶用向け電線シェア約70%。

KOBEウェルディングワイヤ
溶接用ワイヤを製造及び販売を行う神戸製鋼の子会社。

パナソニック フォト・ライティング(旧ウエスト電気)
松下電器産業の子会社。
エレクトロニックフラッシュなどのOEM供給を主な事業内容とし、これらはニコンやライカなどに供給される。
福知山の工場ではエレクトロニックフラッシュも含め、白熱電球や蛍光灯、デジタルカメラなども生産される。

クラシエホールディングス株式会社(旧カネボウ株式会社)
かつて東証と大証1部に上場していた企業であったが、赤字決済を隠すために行われた粉飾決済により上場廃止になった企業である。
福知山の工場ではティッシュペーパーのスコッティなどの紙製品を生産する。

武田ヘルスケア
武田薬品工業100%出資の子会社で、武田薬品工業が販売するビタミン剤のアリナミンや風邪薬で知られるベンザブロックなどの市販薬の大半はここで生産され全国へ出荷される。
また、生薬・漢方製剤の原材料農場ももつ。

カワイ電線株式会社
カワイ電線商事の100%出資の子会社で、大正4年2月1日創業とその歴史は古い。
社名の通り電線を製作するメーカーで、綾部市に所在する工場と並んでこの企業が出荷する全ての製品を生産する。

道路

盆地という山々に囲まれた閉鎖的な地形をしているにもかかわらず、福知山周辺地域では少なくとも縄文時代から人が住んでいたことなどから古くから道路が整備され、日本海沿岸、山陰地方と京阪神方面をつなぐ交通の要所として栄えた市である。
百人一首の中の小式部内侍が歌った「おほえ山 いくの(生野)の道の遠ければ まだふみも見ず 天橋立」の歌枕として登場する生野は福知山市内の地名であるが、このことからその福知山と交通の歴史の深さを知ることが出来る。
1987年(昭和62年)ごろから京阪神から日本海側へつながる高速道路である舞鶴若狭自動車道もようやく整備され、鉄道に加え交通の要(かなめ)の役割を果たす道路が交わる北近畿の交通の中心となっている。

冬期の早朝の山間部では霧が濃く路面の凍結も見られる。
国道9号線の一部などではスプリンクラーによる散水を行い、解雪や凍結を防いでいる地域も見られるがそれはほんの一部であり、基本的に冬季の車での移動はスタッドレスタイヤを装着しないと非常に危険な状態となる。

バス

福知山市は盆地という地形上、福知山市のほとんどを占める山間部では非常に入り組んだ地形をしているだけでなく、広い土地に多数の小規模の集落がいたるところに点在しているため、バスや鉄道がそれぞれの地域を周ることは難しい。
そのため市内の移動には自家用車が欠かせず、市民の自家用車保有率は高い。
当時の運輸省が調査した平成8年度の一世帯あたりの京都府全体の自家用車保有率が75.3%だったのに対して当時の福知山市の保有率は94.2%であった。
このことから、一家に一台というのはほぼ当たり前に近い状況であることが分かる。
夫婦で一台ずつという家庭も多く見られ、その傾向は福知山市街地郊外に出れば出るほど強くなる。
特に農村部では夫婦一台ずつに加えて農作業用のトラック一つという家庭も多くみられる。

そのため時代が進むにつれバスやタクシーの利用者も減少の一途をたどり、各バスやタクシー会社では赤字経営に悩まされる所もある。
特にバスにおいては廃線や経営移譲を余儀なくされるほどの経営状況である。
これ打開しようと2007年(平成19年)3月1日より西日本JRバスが、デマンドバスサービスを取り入れるなどの工夫を凝らすものの依然として現状は厳しいものである。

所在路線

全但バスは兵庫県北部を運行するバスであるが、福知山市内に乗入れるバス停がある。
また逆に福知山市営バスの旧三和町の路線は綾部市や京丹波町、兵庫県篠山市に乗入れる路線がある。

公営
福知山市営バス
福知山市内自主運行バス
私営
西日本ジェイアールバス
京都交通 (舞鶴)
丹後海陸交通
全但バス

アクセス

東京方面から
京浜急行バス品川バスターミナル発
大阪方面から
丹後海陸交通梅田駅発
神戸方面から
日本交通三宮バスターミナル発
京都交通 (舞鶴)三宮発
宮津方面から
丹後海陸交通宮津駅発

タクシー

日本交通 (福知山市)
京丹タクシー

アクセス

高速自動車道
舞鶴若狭自動車道福知山インターチェンジ

鉄道

明治時代になると日本は日露戦争を控え、日本海の軍港舞鶴港へつなぐ交通網の普及の必要から比較的早くから鉄道の整備がされた。
更に戦後には北近畿地方の拠点として鉄道管理局がおかれ「鉄道のまち」としても栄えるようになる。
現在、福知山市にはJR西日本の西日本旅客鉄道福知山支社や車両基地(福知山電車区)、北近畿タンゴ鉄道の本社が置かれている。
鉄道の拠点としては、福知山色と呼ばれる車両塗装の名前に見られるように浸透しており、市も鉄道関連の観光施設や各種イベントを特色にしている。
福知山鉄道館ポッポランドや北丹鉄道の福知山西駅跡のSL公園には、当時使用されていたSLやそのレプリカが保存展示されており、福知山駅南口にも転車台が展示される計画である。

稀に誤解されることがあるJR福知山線脱線事故(尼崎脱線事故)は、兵庫県尼崎市塚口駅 (JR西日本)~尼崎駅 (JR西日本)間で発生した事故でありこの市で発生した事故ではない。

所在駅

福知山市には北近畿タンゴ鉄道と西日本旅客鉄道の2社の鉄道会社の路線が走っており、両社の福知山駅は市の中心駅の役割を果たしている。
特にJR西日本の福知山駅はJR西日本が掲げる北近畿ビッグXネットワークの中心部を担い、山陰本線、福知山線、北近畿タンゴ鉄道宮福線の合流点でもあり京都駅、大阪駅、宮津駅、天橋立駅、和田山駅、豊岡駅 (兵庫県)、城崎温泉駅へは特別急行列車で乗り換えなしに行くことができる。
福知山駅は福知山線の始点となり、また舞鶴線は東舞鶴駅に始まり綾部駅が終点となっているが、多数の列車が乗り入れるため福知山駅が実質終点である。
福知山市を通る路線の多くが単線で、福知山線については複線化を望む声もあるが利用者が少ないため現実的には不可能である。
(詳しくは福知山線篠山口駅以北の複線化と現状を参照)

西日本旅客鉄道(JR西日本)
福知山線 : 福知山駅(起点駅) - ・・・至大阪駅
山陰本線 :至京都駅・・・ - 石原駅 (京都府) - 福知山駅 - 上川口駅 - 下夜久野駅 - 上夜久野駅 - ・・・至城崎温泉駅
北近畿タンゴ鉄道(KTR)
宮福線 : 福知山駅(起点駅) - 厚中問屋駅 - 荒河かしの木台駅 - 牧駅 - 下天津駅 - 公庄駅 - 大江駅 (京都府) - 大江高校前駅 - 二俣駅 - 大江山口内宮駅 - ・・・至天橋立駅

アクセス

福知山線、山陰本線、北近畿タンゴ鉄道ともに特別急行と快速列車、普通列車が運行されている。
福知山駅を起点に北近畿ビッグXネットワークが設定されているため利便性はよい。

JR山陰本線京都駅から
京都駅(山陰本線)~福知山駅
JR特急はしだて (列車)
JR特急たんば (列車)
JR特急きのさき
KTR特急タンゴディスカバリー
JR山陰本線城崎温泉駅から
城崎温泉駅(山陰本線)~福知山駅
JR特急きのさき
JR特急北近畿 (列車)
JR東海道本線新大阪駅、大阪駅から
新大阪駅(東海道本線)~大阪(福知山線)~福知山駅
JR特急北近畿 (列車)
JR特急文殊 (列車)
KTR特急タンゴエクスプローラー
KTR宮福線天橋立駅から
天橋立駅(KTR宮福線)~福知山駅
JR特急はしだて (列車)
JR特急文殊 (列車)
KTR特急タンゴエクスプローラー
KTR特急タンゴディスカバリー

観光

福知山市への観光客の割合は85%が日帰り客を占めている。

課題点

旧夜久野町役場には子午線が通り、酒呑童子の鬼伝説で知られる大江山や光秀の福知山城などの観光スポットだけでなく、元伊勢神社や「鉄道のまち」としてSL資料展示館や関連イベントがある。
しかしそれらの整備・PRは十分とは言えず、他の隠れた観光資源も含めてこれからの課題といえる。

福知山と光秀

福知山城の初代城主であったことに加えて明智光秀は善政をしいたことから、明智氏の治世がごくわずかであったのにもかかわらず、福知山市ではいたるところで明智氏や光秀に関連したものやイベントが多数所在する。

市の花は明智氏の家紋であるキキョウ、福知山音頭にも光秀がうたわれ、福知山観光協会のイメージキャラクターも光秀がモデルとなっているほどである。
また市内に所在する御霊神社 (福知山市)では光秀が神様として祭られ、光秀の家来四王天但馬守政孝が使用していたすねあてや、当時の福知山城の様子が描かれた絵や光秀直筆の書をはじめとする多数の資料が残されている。

イベント

お城まつり(4月上旬)
福知山市こども大会(5月上旬)
ボンチフェスタ(8月上旬)
福知山ドッコイセまつり(福知山音頭)(8月中旬)
堤防祭り(8月15日)
姫髪山の送り火(丹波送り火)(8月16日)
丹波光秀ききょう祭り(10月上旬)
ミニSLフェスタ(10月下旬)
(11月23日)

旧跡

福知山には元伊勢とされる神社や、祭神が武内宿禰や明智光秀であるなどの特徴ある寺社が多数所在する。

福知山城(郷土資料館)
市民の寄贈により明智光秀築の天守閣を再建。
内部は歴史資料館になっている。

梅田神社
かつての一円札にもなった武内宿禰を祀る神社。
3つある社殿は全て京都府登録文化財に、境内も文化財環境保全地区に指定されている神社でもある。

長安寺
もみじ寺で知られる寺。

天寧寺
南北朝時代創建。
将軍足利義持の祈願所。

養泉寺
観音寺
「あじさい寺」ともよばれる紫陽花の名所。

御霊神社 (福知山市)
福知山城主朽木氏が宇賀御霊大神に明智光秀の合祀を許した神社。
現在は当時の位置より西に移設されたもの

元伊勢神宮
元伊勢伝承の神社(外宮豊受大神社・内宮皇大神社・天岩戸神社)。
現伊勢神宮より50年以上前の創建との伝承があり、全国でも二例しかない黒木の鳥居(皮を剥がないままの杉木で組まれた鳥居)が特徴的である。

大原神社 (福知山市)
京都府指定文化財「大原の産屋」(京都府有形民俗文化財)
一宮神社 (福知山市)
丹波と丹後の国境を守る神様が祀られており、福知山藩の鎮守としても栄えた神社である。

施設

日本の鬼の交流博物館
福知山鉄道館ポッポランド 「鉄道のまち」に関する資料館
福知山市佐藤太清記念美術館
芦田均記念館
丹波生活衣館 - 昭和から現代にかけての生活衣類を展示。
織物体験も出来る。

北陵総合センター ロッジ・運動場・体育館などがある
三段池公園 市民の総合公園
道の駅農匠の郷やくの
治水記念館
やくの玄武岩公園
鬼瓦公園

史跡

福知山市を含む周辺の地域では様々な古墳、石室、土器等が多数発見されていることから、丹波国が形成される以前より多くの人々が住んでいたと考えられている。

景初四年銘盤龍鏡
国の重要文化財指定。
1986年(昭和61年)10月に福知山駅南の丘陵地に位置する、広峯15号墳(前方後円墳)より出土した。

牧正一古墳
府内唯一、1墳丘3石室を持つ古墳。
全国的にも珍しい。

豊富の古墳群
そのうち一つの古墳群は、その地名に「額塚(すくもづか)」を残す。
また下山古墳群においては府内唯一の上円下方墳が発見されている。

自然物

大江山
2007年8月3日に国定公園に指定された。
正式名称は丹後天橋立大江山国定公園。
鬼伝説だけでなく上述の鉱山としての歴史も持ち合わせ、日本有数の雲海の名所と知られる場所でもある。

土産物

踊りせんべい
福知山音頭の歌詞や、踊り子の姿などの焼印の入った玉子せんべい。
代表的な土産物。

鬼饅頭
底の大きさが、大人の手のひらの大きさほどもある大きな饅頭。
そのままで食べるのは大きすぎるので、普通は包丁などで小さく切って食べる。

笑鬼もなか
鬼の顔をかたどった形をしたもなかである。

その他

福知山温泉
福知山藩主朽木綱貞が「養老水」と名づけた湧き水の地に掘削された温泉。
疲労回復や冷え性、火傷などの効用があるとされるが、飲用は不可能である。

現代の特産品

各種京野菜を特産とする他、丹波ブランドの農産品がある。

報恩寺のタケノコ

市東部の報恩寺(ほおじ)地区で取れるたけのこ。
毎年春の到来を知らせるニュースとして、タケノコの試し掘りがテレビなどのメディアで取り上げられる。
グルメ食材としてネット通販に登場する。

黒大豆

丹波の黒大豆といえば主に篠山市で採れるものをさすが、福知山も丹波の良質の黒大豆生産地で知られている。
これを使用したお菓子などが土産物にある。

丹波栗

丹波栗の歴史は古く、日本最古の歴史書である日本書紀にも丹波栗が記されているほどである。
丹波栗はたびたび幕府や朝廷への献上品としても重宝され、江戸時代になると参勤交代制度により全国に広まったのが起こりである。
三和町を中心に生産されている。

ひょうたん

三岳地区の特産品。
ひょうたん細工の開発やひょうたん祭等のイベントも行われている。

かつての特産品


15世紀ごろからアイ (植物)の栽培と藍染めが由良川沿いを中心に盛んに行われており、1496年、藍染めの布を荘園に納めたとされる記録が残っている。
江戸時代には藍染めをする一般家庭の件数は1500近くもあったともいわれ、町屋360軒のうち25軒が紺屋であったとされる。
これらのことから藍染め品は当時の福知山市の特産品であったことがうかがえる。

しかしやがて、輸入品や化学染料に押され全国の藍の産地が消え行く中、京都の最後の藍の産地となっていた福知山も大正の時代とともに姿を消した。
現在再び藍染めのよさが見直され、藍の栽培と藍染めを復活させる活動がなされている。
市内の一部の小学校などでは総合的な学習の時間の一環として、藍染め体験をさせる学校も存在する。

生糸

福知山は度重なる福知山市福知山と由良川に対して桑は洪水に強かったことや、由良川の水素イオン指数値が製糸に適した水質であったことなどから、古くから養蚕業が栄えたまちである。
その歴史は福知山市を含む丹波地方の養蚕業は千年以上も昔から行われていたとも言われ、昭和初期ごろに全盛期を向かえた。
1928年(昭和3年)にはグンゼの事務所が、翌年には工場が置かれたほどで、生産された生糸は丹後ちりめんや西陣織の原材料としてだけでなく海外への輸出用としても生産され、養蚕業は当時の福知山を支える地場産業であった。

しかし第二次世界大戦になると食糧不足解消のため、桑畑をサツマイモ畑に転作したことや、糸そのものの価格の低下、ナイロンなどの化学繊維の出現や養蚕農家の後継者不足と高齢化などのさまざまな理由によって養蚕業の衰退を招き、これらをきっかけにほとんどの養蚕農家や製糸業者は廃業に追い込まれた。
それでも生き残った数少ない業者も業界の激しい値下げ競争により、生産拠点を人件費が安い海外へ移さざるを得なくなったことがさらに追い討ちをかけ、その業者の一つであったグンゼも2001年9月に福知山から撤退するなど、特産品であった生糸も現在は養蚕農家を市内大江町に一軒だけ残すのみとなり、上述の藍同様にほぼ完全に福知山から姿を消した。
藍ほどではないが福知山と蚕の歴史を伝えるため、藍と同じく一部の学校では総合的な学習の一環として、蚕の飼育やビデオ鑑賞でその生態などを学ばせる学校も存在する。

丹波うるし

福知山市夜久野地方では漆の名産地としても栄えた。
奈良時代初期には既に漆掻き(漆の採取)が行われていたとされ、明治時代には福知山とその周辺の地域において漆掻きをする人が500人近くも居たといわれている。
1907年(明治40年)発行の、全国の漆の産地30箇所を記した書物「実用漆工術」には、丹波(福知山)の漆は一番目に書かれておりその歴史の深さを物語っている。

しかし現在では漆の98%が中華人民共和国産の輸入品へと移り変わり、日本国内の漆の産地はほんのわずかしか残されていないものの、福知山ではその伝統と歴史が細々と受け継がれている。

丹後和紙

福知山市では和紙の原料となる良質のコウゾがよく取れたことに加え、上記の漆産業も盛んであったことから、主に漆をこすために使用される和紙の名産地とも栄えた。
特に明治時代から昭和初期にかけては、書道用の和紙や障子用の和紙としても原材料のコウゾとあわせて他府県にこの和紙は大量に生産、販売された。

京都府無形文化遺産にも指定されており、当時の和紙すきを行う所は200戸余りもあったといわれていた。
しかし漆産業の衰退などの理由によって、他の産業同様に衰退を招き大江町和紙伝承館などの限られた施設でのみしか、ほとんどその伝統を見ることしか出来なくなっている。


方言

福知山の古くからの住民は、丹波の氷上(丹波市)を中心に、但馬や丹後から移り住んで来た歴史があり、現在もなお通勤・通学する人は多く、市民の多くはその地出身であると言う人も少なくない。
従ってその方言はこれらの地方の特徴が若干混在するものとなっている。
しかしながら、主体となるのはやはり丹波弁であり、丹波氷上の特徴でなる「丹波弁ちゃった弁」である。
この丹波弁は関西弁に属する方言であるが、一般的な関西弁の使用方法とは若干異なる点が見られ、「~しよった」の使用法の違いはそれに代表される。
(詳しくは丹波弁「~よった」の使い方を参照)

人口比率

福知山市は周辺自治体では人口の減少が進む中少なくとも平成の合併まではほぼ横ばいに近い程度の人口増加を続けてきた市である。
しかし国勢調査によると、1985年(昭和60年)の老齢人口比率は11.7%だったのに対して1999年(平成11年)には18.4%にまで上昇しており高齢化が進行している市でもある。

電力

福知山市全域の電力は関西電力より供給されている。

ガス

市街地周辺のガスは、由良川とその支流である土師川より西は市の公営企業(福知山市ガス水道部)、以東の長田野工業団地周辺は株式会社長田野ガスセンターが供給する天然ガス(一部区域は公営企業によるプロパンガス)による都市ガスとなっている。
しかし、供給困難な山間部や市街地においても供給区域でない地域があり、ボンベによるプロパンガスを使用している世帯も少なくない。

水道

福知山は山々に囲まれているため、由良川、土師川、牧川などの川の水資源が比較的豊富で福知山市の水道代は近畿の194ある市町村の中で20番目に安い。
それら水の供給は市の公営企業(福知山市ガス水道部)の上水道および簡易水道より供給される。
市街地周辺の簡易水道については、順次上水道への統合計画が進められている。
一方、下水については浸水被害の歴史から比較的早くから整備されて来ており、旧福知山市域においては80%の下水道普及率(浄化槽を含む水洗化率は92%)があった。
旧市街地についてはこの理由により、内水排除を目的に雨水汚水の合流式となっている。

ゴミ

市のゴミ処理は、市内牧に所在する環境パークにての焼却、埋め立て処理、リサイクルとなっている。
収集されるゴミは、燃やすごみ・燃やさないごみ・プラスチック製容器包装類・資源ごみ(空き缶、空きビン、紙パック、ペットボトル)・蛍光管で、前3種は有料専用袋の使用、また各種の分別が求められる。
また粗大ゴミ・特定家庭用機器再商品化法・事業所のゴミは持込みとなっている。
「燃やすこみ」とされるもの以外は燃やせないタイプの焼却炉であり、現在の埋め立て用地は十数年もすればなくなってしまうため新たな埋め立て用地の確保が問題点となっている。

市役所

本庁および平成の市町村合併以前の各町単位に3つの支所を設けている。
夜久野支所以外は旧庁舎におかれている。

警察署

福知山市に所在する警察署は福知山警察署一つのみである。
2005年の市町村合併以前は、三和町 (京都府)、大江町 (京都府)、夜久野町と3つの町も同時管轄していたが、合併に伴い現在は福知山市のみの管轄となった。

消防署

福知山市の消防団は地域ごとに6つのブロック分けがなされており、その中に計29の分団が存在している。

図書館

市立図書館は分館等あわせて5つの施設がある。

郵便番号
2006年3月19日に変更された。

福知山郵便局(620-00・-02・-03・-08・-09)

三和郵便局(620-13・14)

夜久野郵便局(629-13)

統計
(農林水産省)
資料「福知山市の現況調査」(PDF形式)

[English Translation]