雍州 (Yong Zhou)
雍州(ようしゅう)は、中国の歴史的な州の一つ。
上古の中国の九州 (中国)の一つに数えられている。
具体的な区域については、『爾雅』では「河西」、『尚書』では「黒水西河」とする。
黄河は陝西省と山西省の境界付近を南から北に流れている。
「河西」「西河」はこの黄河の西側という意である。
『周礼』では「正西」すなわち中原から真西側にあたる地域であるとする。
漢の州名として雍州は使用されず、陝西省・甘粛省一帯は涼州とされた。
しかし後漢の興平元年に甘粛省側の4郡を分割して雍州とし、陝西省側をそのまま涼州とした。
その後、建安18年に州名を古代の九州の通りに改めるとして、雍州・涼州を合併し雍州とした。
黄初元年に今度は甘粛省側を分割して涼州として、陝西省側を雍州とした。
つまり、わずか半世紀の間に涼州と雍州の領域がほぼ入れ替わるという珍妙な現象が起こったこととなる。
曹丕の治世中に雍州西部を分割して秦州とした。
In early Jin, Changan was established as 州治 (provincial capital).
北魏の太和11年にさらに雍州西部を分割して岐州とした。
一方、太平真君4年に雍州とは別に山西省南部に「東雍州」が設けられたが、太和4年に廃された。
南朝も東晋の大元年間に襄陽を中心とする地域に僑州として雍州を置いていた。
しかし、西魏の恭帝元年に北朝がこの地を占領すると、同じ北朝内に雍州を二つ置くわけにいかないため、襄州と改名した。
北周・隋・唐代には雍州は国都長安の所在する州であることから、長官は州刺史ではなく州牧とされ、品秩も刺史より上であった。
また、軍事拠点として関内道の総監府が置かれた。
唐の開元元年に雍州は京兆府と改められ、州名としては消滅した。
長安を含む州であったため、それに倣って日本の京師である山城国の雅称に転用した。
そこから「雍尋城州」という異称も派生した。