京都市中京区の町名 (Town names in Nakagyo Ward, Kyoto City)
本項京都市中京区の町名(きょうとしなかぎょうくのちょうめい)では、同区内に存在する公称町名を一覧化するとともに、その成立時期・成立過程等について概説する。
区の概要
京都市街地のほぼ中央に位置する。
東は左京区と東山区、西・南・北はそれぞれ右京区、下京区、上京区に接し、西北のごく一部が北区 (京都市)に接する。
面積7.38平方キロメートル。
2009年3月現在の推計人口は約103,600人。
昭和4年(1929年)に上京区・下京区の各一部をもって新設された区である。
区の東には鴨川が流れ、東山区との境をなす。
区の中央部北寄りには二条城が広大な面積を占める。
区の南東部、四条河原町周辺は市内随一の繁華街で、花街の面影を残す先斗町(ぽんとちょう)通り、アーケード街の錦市場なども近くにある。
京都市役所も当区内にある。
通り名を用いた住所表示
日本における住所表示は、建物の面している道路名ではなく、建物が所在する町や字(あざ)の名をもって表記されるのが普通であるが、京都の市街地においては例外的に「通り名」を用いた住所表示が行われている。
この方式では、まず、家屋、ビルなどが直接面している通りの名を先に言い、その後に直近で交差する通りの名を付記し、「上る」(あがる)、「下る」(さがる)、「東入」(ひがしいる)、「西入」(にしいる)等と表記する。
A通B西入
- 建物はA通(東西方向の道)に面しており、B通(南北方向の道)との交差点から西に入った地点にある。
C通D上る
- 建物はC通(南北方向の道)に面しており、D通(東西方向の道)との交差点から北に入った地点にある。
住所は上記のような通り名のみで表示する場合もあり、「A通B西入」等の後に町名を併記する場合もある。
たとえば、京都市役所の所在地は中京区上本能寺前町であるが、これを「京都市中京区寺町通御池上る上本能寺前町488番地」と表示する。
町数など
京都市内の町名には「大原来迎院町」のように旧村名、旧大字名に由来する地名(上記例の場合は「大原」)を冠称するものと、「亀屋町」「菊屋町」のような単独町名とがある。
中京区においては、区のほぼ東半分の地域の町名は単独町名であり、西部は市町村合併以前の地名を継承する「聚楽廻」「西ノ京」「壬生」を冠称する町名となる。
区内の公称町名の数は、『角川日本地名大辞典 26 京都府』下巻によれば498町(1980年現在)である。
この町数は2009年現在も変化していない。
京都市においては「住居表示に関する法律」に基づく住居表示は実施されておらず、市内の公称町名については、「京都市区の所管区域条例」(昭和24年4月1日京都市条例第7号)が根拠となっている。
「所管区域条例」に列挙される中京区の町名は『角川日本地名大辞典』のそれとおおむね一致するが、細部には差異がある(「備考」の項を参照)。
沿革
近世には、二条通り以北を上京、以南を下京と称し、上京には「上京十二組」「禁裏六丁組」、下京には「下京八組」という町組(ちょうぐみ)が組織されていた。
町組は近隣の町の連合体、自治組織であり、その起源は判然としないが、室町時代には存在が確認される。
明治元年(1868年)、京都府の成立とともに、上京・下京の町組は上京1 - 45番組、下京1 - 41番組に編成されるが、翌明治2年(1869年)には町組改正で上京1 - 33番組、下京1 - 32番組に再編成された。
明治5年(1872年)には「番組」が「区」に改められ、上京1 - 33区、下京1 - 32区となった。
上京が33、下京が32に区分される点は変わらないが、旧下京24番組が下京7区と15区に二分され、旧下京22番組と32番組が統合されて下京16区になっている。
明治12(1879年)年、京都府に上京区・下京区が設置されると、前述の「区」は、番号はそのままで「組」と改称、上京1 - 33組、下京1 - 32組となる。
明治22年(1889年)、京都市制とともに、上京区・下京区は京都市の区となる。
なお、近世と違い、二条通りではなく三条通りが上京・下京の境となっている。
この間、明治21年(1888年)には同年上京区・下京区に編入された愛宕郡の旧村の区域に上京34組及び下京33組が設定された。
明治25年(1892年)には「組」を「学区」に改組。
旧上京1 - 33組、下京1 - 32組は上京第1 - 28学区、下京1 - 32学区に編成された。
このうち、上京第18 - 26学区と下京第1 - 6学区が現在の中京区の東半部に相当する。
中京区は昭和4年(1929年)に上京区・下京区の各一部をもって新設された。
同年、学区名に小学校名を付して「梅屋学区」「竹間学区」のように称するようになる。
昭和16年(1941年)の国民学校令の発布とともに学区制は廃止された。
したがって、これらの学区は現在では正式の行政区域ではないが、「元学区」という形で、地域の通称としては現在も使われている。
なお、学校の統廃合等により、元学区と現在の通学区とは一致していない。
下の表は、上述の変遷をまとめたものである。
中京区の元学区の変遷
区内の東半部の町名は、おおむね近世以来の町界・町名を現代に引き継いでいる。
ただし、明治時代の初期に数か町が合併して新たに命名された町、寺院境内地など、従来町名のなかった土地に新たに起立した町名なども一部に存在する。
二条城の敷地を町域とする「二条城町」は昭和14年に成立したものだが、他の単独町名は遅くとも明治時代初期には成立している。
単独町名
五十音順の町名一覧は、外部リンクの郵便番号一覧を参照のこと。
聚楽廻地区
中京区の西部は、明治22年(1889年)の市制町村制施行時には葛野郡朱雀野村(かどのぐんすじゃくのむら)であった。
朱雀野村は大正7年(1918年)、当時の上京区と下京区に分割して編入された。
同村には聚楽廻(じゅらくまわり)、西ノ京、壬生(みぶ)の3つの大字があったが、これらは計74の町に編成された。
「聚楽廻」を冠称する町は、もとの朱雀野村聚楽廻で、大正7年上京区に編入され、5町に編成された。
昭和4年(1929年)中京区成立とともに同区の町名となった。
西ノ京地区
「西ノ京」を冠称する町は、もとの朱雀野村西ノ京で、大正7年上京区に編入され、52町に編成された。
昭和4年(1929年)中京区成立とともに同区の町名となった。
その後、以下のような変遷を経て、62町となっている。
昭和25年(1950年)西鹿垣町、上平町、北・西円町、南大炊御門町が成立。
昭和42年(1967年)南両町、南円町、中御門東・西町、南上合町、北・南壺井町、東・西中合町が成立。
中御門町、壺井町、中合町が廃止。
昭和45年(1970年)宇多小路町が廃止。
壬生地区
「壬生」を冠称する町は、大部分がもとの朱雀野村壬生、一部が葛野郡西院村西院で、ともに大正7年(1918年)下京区に編入され、22町に編成された。
昭和4年(1929年)中京区成立とともに同区の町名となった。
上記22町のうち大竹町、淵田町、土居之内町、桧町、東高田町の5町は西院村西院の一部で、当初「西院」を冠称していたが、昭和6年(1931年)からは「壬生」を冠称している。
その後、以下のような変遷を経て、30町となっている。
なお、西院村の残余は昭和6年、右京区に編入された。
昭和14年(1939年)仙念町、東・西土居之内町、東・西桧町が成立。
昭和29年(1954年)上・東・西大竹町、東淵田町が成立。
昭和42年(1967年)大竹町が廃止。
区内の同一町名
中京区では、同一の町名が区内の別の場所に複数存在する例が下記の32組ある。
たとえば、「下丸屋町」という町は、京都市役所や本能寺の近くの「河原町通御池下る」にあるほか、そこから数百メートル西北方の「小川通夷川上る」にも同じ名の町がある。
これらはいわゆる飛地ではなく、起源を異にする別個の町である。
この2つの「下丸屋町」には別個の郵便番号が設定されている(他の同一町名についても同様)。
中京区内に同一町名が複数存在するもの
油屋町、石橋町、石屋町、梅之木町、梅屋町(3か所)、大炊町、鍵屋町、鍛冶屋町(3か所)、亀屋町(5か所)、菊屋町(3か所)、笹屋町、三文字町、塩屋町、清水町、下丸屋町、大黒町(3か所)、大文字町(4か所)、高宮町、橘町、俵屋町(3か所)、突抜町、槌屋町、壺屋町(3か所)、中之町(4か所)、毘沙門町、船屋町、桝屋町(4か所)、松本町、丸屋町(3か所)、百足屋町、八百屋町、和久屋町(注記のないものは2か所)
その他
亀屋町
- 区内に同一町名が5か所ある。
桑原町、石屋町(富有学区)
- 町地の大部分が京都御苑敷地内となり、現状は丸太町通り沿いのごく狭小な土地を残すのみ。
瓦町、瓦之町
- ともに初音学区内にある。
備考
西ノ京日扇町
- この町名は、『角川日本地名大辞典 26 京都府』では現行行政地名とされているが、京都市の各区に属する公称町名を列挙した「京都市区の所管区域条例」(昭和24年4月1日京都市条例第7号)には収録されていない。
ただし、公職選挙法に基づく投票区を定めた告示(昭和42年11月2日中京区選管告示第5号)では、第19投票区に属する町名の1つとして「西ノ京日扇町」がみえる。
当該町の区域は工場敷地の一部となっている。
東大文字町、西大文字町(生祥学区)
- 上記「所管区域条例」ではともに「大文字町」と表記されている。