祇園甲部 (Gion Kobu)
祇園甲部(ぎおんこうぶ、京都市東山区)は、京都で最大の京の花街。
日本国内のみならず海外でも知られている。
歴史
江戸初期に八坂神社の門前で営業された水茶屋がこの花街の始まりである。
後に行政からも花街として公認されることになったが、この際に団子をモチーフにした紋章が作られた。
この紋章は現在も祇園甲部と祇園東の紋章として使われている。
江戸末期にはお茶屋が500軒、芸妓、舞妓、遊女合わせて1000人以上いたという。
1872年、東京奠都によって繁栄に陰りが差した京都を立て直す為、槇村正直が博覧会の余興として都をどりを考案するが(詳細は「都をどり」の項を参照のこと)、この振り付けを担当したのが三世井上八千代である。
この時、以降の祇園甲部の舞いは井上流に限るとする取り決めが為され、現在まで祇園の舞は井上流一筋となっている。
この時期、祇園は文人や政治家等に愛され大いに繁栄した。
当時、『膳所裏』と呼ばれていた一部の地域は祇園乙部、後の祇園東(乙部の詳細は「祇園東」の項を参照のこと)として分離し、現代に至る。
第二次世界大戦が始まると白川沿いの北側は建物疎開で破壊された(その中に磯田多佳が経営していた『大友』(だいとも)が含まれていた)。
この地域は現在は遊歩道となっている。
終戦後(1945年-)、祇園甲部はすぐに営業を再開、その5年後に『都をどり』が南座で再開(後に本拠地である歌舞練場に戻り、今に至る)。
昭和30年代から40年代にかけてお茶屋150軒、芸妓、舞妓合わせて600人を数えたが、時代の流れと共に花街の規模は縮小していった。
古い街並みはビルに変わり、加えてバーやスナック、性風俗店の進出により環境が悪化する。
新橋地区(元吉町)の住民はこの乱開発に危惧を抱き、この地域の町並み保存を行政に働きかけた。
この結果、新橋地区は修景地区に指定され、後に重要伝統的建造物群保存地区に選定される。
一方、祇園町南側(とくに花見小路通周辺)は女紅場学園所有であるために乱開発は逃れ、歴史的風景特別修景地区に指定された。
この町のシンボルというべき舞妓も一時は20人以下へと落ち込んでいたが、近年徐々に回復し、現在は30人弱にまで増えていると言われる。
人物
祇園は数多くの人物で彩られ、また名妓を輩出してきた。
江戸初期には大石内蔵助が一力茶屋で遊んでいた話は歌舞伎などでも知られ、江戸末期には後の新政府を樹立する多くの志士らによって利用され続けた。
当時、大和大路通に営業していた『魚品』の芸妓、中西君尾は志士らを新選組の目から逃れさせたことで有名。
時は下り、明治期に『加藤楼』のお雪(雪香)はアメリカの財閥であるモルガンと結婚して、後に『モルガンお雪』と呼ばれた。
吉井勇の『かにかくに』の歌で有名なお茶屋『大友』の女将で芸妓である磯田多佳や、井上流の名手として、また後輩の育成に努めた松本佐多、ほかに早崎春勇、三宅小まめ、玉木里春、藤本竹葉、安藤孝子(現役当時の芸名は孝千代、後に11PMに出演)、岩崎究香、高田真知子、佳つ乃など京都のみならず、世間に花を添えてきた芸妓が数多くいる。
最近では芸妓としては初のジャズシンガーの真箏がいる。
現在、祇園甲部芸妓組合の会長に就任しているのは芸妓で井上流名取である小富美で、ほかにまめ晃、斗美千代、豆爾、まめ鶴、小萬、小鈴、豆弘、豆花、山口小喜美、照古満、寿々葉など代表的な芸妓らがいる。
主な行事
始業式
初寄り
大石忌
都をどり 4月1日-4月30日
五花街合同公演
みやび会
祇園祭
八朔 8月1日
温習会 10月1日-10月7日
顔見世総見
事始め
おことうさん