キリシタン大名 (Christian daimyo)

大村純忠と有馬晴信とともに天正遣欧少年使節をローマに送った。

キリシタン大名(キリシタンだいみょう、吉利支丹大名)はキリスト教を信仰した大名のことである。

戦国時代
フランシスコ・ザビエルは戦国時代 (日本)の日本をよく理解し、まず各地の戦国大名たちに領内での布教の許可を求め、さらに布教を円滑に進めるために大名自身に対する布教も行った。
後から来日した宣教師たちも同様に各地の大名に謁見し、領内布教の許可や大名自身への布教を行っている。
その際、大名たちの歓心を得るために、布教の見返りに南蛮貿易や武器の援助などを提示した者もいる。
大名側もこうした宣教師から得られる利益をより多く得ようと、入信して歓心を買った者もいた。
入信した大名の領地では、特に顕著にキリスト教が広がることになった。
しかしキリスト教が広まると、キリスト教の教義や、キリシタン大名の人徳や活躍ぶり(特に高山右近)に感化され、自ら入信する大名が現れた。
南蛮貿易に関係のない内陸部などでもキリシタン大名は増えていった。

キリスト教に入信した大名とその配下達の中には、宣教師たちの意見を聞き入れ領地内の寺院や神社を破壊したり焼き払うなどの行動を取った者もいた。
仏教や神道を奉ずる大名の中にも、僧侶たちの意見を聞き入れ外来の宗教であるキリスト教を『邪教』として弾圧する者もいた。
そしてキリスト教徒と日本の旧来の宗教の信者達との間に憎悪と対立を深めていくことになった。
また、豊臣秀吉によりバテレン追放令(伴天連追放令)が出され、キリシタン大名に対する政治的な圧力が強まった。
多くの大名が改易、もしくは仏教か神道への改宗を余儀なくされ(強制改宗)、キリスト教の禁教と迫害の時代に入っていった。

江戸時代
江戸時代に入り、1613年(慶長18年)には禁教令も出されたため、最後まで棄教を拒んだ高山右近はマニラに追放され、有馬晴信は刑死し、以後キリシタン大名は存在しない。

彼らの領内にいた多数のキリシタンは、仏教に改宗するか、隠れキリシタンとなった。
また、劇的な例では旧有馬晴信領で起こった島原の乱という大規模な一揆の際に殺害され、表から消えていった。

[English Translation]