一会桑政権 (Ichikaiso Government)

一会桑政権(いちかいそうせいけん)は、幕末の政治動向の中心地京都において、禁裏御守衛総督兼摂海防禦指揮・一橋慶喜、京都守護職・松平容保(会津藩)、京都所司代・松平定敬(桑名藩)三者により構成された体制。

概要

この体制は尊皇攘夷・長州藩への対抗を通じて形成され、八月十八日の政変以降、尊皇攘夷派が退潮し、さらに公武合体論に基づく有力諸侯による参預会議が崩壊したのち、王政復古の大号令による倒幕派クーデタまでの京都政界をほぼ支配した。

徳川幕府を代理する立場ではあるが、江戸を離れた京都にあって天皇の信任を得る一方、必ずしも江戸の幕閣の意向を代弁するわけではなく、相対的に独自の勢力を形成していたとする見方からこのように呼ばれる。

大阪経済大学助教授の家近良樹が、幕末期の政治状況は従来の薩長と幕府との対立というだけでは説明できないとしてこの「一会桑政権」と呼ばれる歴史概念を主張している。
従来の薩長史観では見過ごされがちだが、この三者が幕末において果たした役割を再評価している。

成立まで

黒船来航・開国以来、尊皇攘夷が高まりを見せ、天皇・朝廷が急速に政治的求心力を備えてくると、幕府の所在する江戸から離れた京都が政治動向の中心となった。
特に安政の大獄を断行した大老井伊直弼が桜田門外の変で横死して後、公武合体を望む幕府が征夷大将軍徳川家茂の正室として孝明天皇の妹和宮の降嫁を求めた1861年(文久元年)頃から、薩摩藩・長州藩・土佐藩などの雄藩が中央政界への進出をうかがうようになり、尊王攘夷派がぞくぞくと京都に集まるようになった。
京都所司代の力のみでは過激派浪士を抑えることができなくなった幕府は、1862年(文久2年)閏8月に会津藩主松平容保を新設の京都守護職に任命する。

会津藩上洛後の京都では尊攘運動がますます激しく、尊攘激派浪士による暗殺・脅迫が横行、朝廷においても尊攘派公家によって朝議が左右されるようになり、天皇の意向はまったく無視されて勅旨が乱発され、幕府に破約攘夷の実行を要求し、さらに1863年(文久3年)8月には天皇による攘夷親征を実行するための大和行幸が企てられた。
尊攘激派が政権を掌握した長州藩も、これらと結びつき京都における政治力を強めていた。

だが、尊攘派と長州藩の動きを嫌う天皇の意を受け、京都守護職の会津藩と薩摩藩が密かに手を結び、8月18日、三条実美ら尊攘派公家とを京都から追放した(八月十八日の政変)。

政変後の朝廷は関白に就任した二条斉敬と久邇宮朝彦親王によって主導されることになる。
また、10月から12月にかけて公武合体派の島津久光(薩摩藩主の父)、松平春嶽(前福井藩主)、伊達宗城(前宇和島藩主)、一橋慶喜、山内容堂(前土佐藩主)が上洛、松平容保とともに朝廷参与会議に任命され、朝廷の下での雄藩の国政参画が実現した。
参預会議は長州藩の処分と横浜港の鎖港をテーマとしていた。
しかし、これを機に主導権を握ろうとする薩摩藩と幕府・一橋慶喜の思惑の違いが絡んで横浜鎖港をめぐって対立、1864年(元治元年)2月に山内が帰国、3月には残る全員が辞表を提出してあっけなく瓦解した。

代わって一橋慶喜は新たに禁裏御守衛総督兼摂海防禦指揮を命じられ、いったん京都守護職を退いていた松平容保も復帰、容保の実弟で桑名藩主の松平定敬が京都所司代に任ぜられた。
以後、孝明天皇・二条斉敬・中川宮朝彦親王の朝廷と「一会桑政権」とが協調して王政復古に至るまでの京都における政治を主導していくことになる。

[English Translation]