三角縁神獣鏡 (Sankakubuchi Shinjukyo Mirror)
三角縁神獣鏡(さんかくぶちしんじゅうきょう・さんかくえんしんじゅうきょう)は、銅鏡の形式の一種で、縁部の断面形状が三角形状となった大型神獣鏡。
概要
日本の古墳時代前期の古墳から多く発掘され、既に400面以上も検出されている。
面径は平均20センチ程度。
鏡背に神獣(神像と霊獣)が鋳出され、中国、魏 (三国)の年号を銘文中に含むものも多くある。
なぜ、三角縁とするかの理由については、ほとんどが凸面鏡であり、三角縁にすると構造上作りやすいから、あるいは、神聖な場所を囲む瑞垣をまねた等の説がある。
中国では2 - 3世紀の時代に、紹興近辺でしか出土しない。
三角縁神獣鏡があらわれる前の3世紀前葉には、「神獣鏡」類の画文帯神獣鏡と呼ばれる中国鏡が、約60面出土している。
その分布の中心は北部九州ではなく畿内地域である。
なお、三角縁神獣鏡の画像は、画文帯神獣鏡の画像を巧妙に変更して創り上げている。
近年の研究
近年の研究で、鏡の断面が時代とともに変化していることがわかってきた。
古い鏡は、外区が厚く、それに対して内区が薄いが、時代の経過とともに外区が薄くなり、内区との差がなくなり、終いには内区と外区の厚さが同じになってしまっている。
これらの変化と文様やその配置などを勘案した5段階の型式編年ができあがっている。
第1段階は景初3年(239)・正始元年(240)前後と推定できるから、一つの段階を約10年あまりと考えて、第2段階は250年前後、第3段階は260年前後、あとの段階も同様に考える。
この型式編年を利用して、出現期古墳はどの段階の鏡を持つかで古墳が年代的に古いかどうかが判断できるようになった。
ただ、鏡の生産地については難しい議論が進行中である。
近年、大阪大学の福永伸哉の研究により、三角縁神獣鏡350面を含む千数百面の鏡の鈕孔(ひも通し孔)の観察から、三角縁神獣鏡の鈕孔の形が長方形で、他の鏡の鈕孔の円形や半円形と異なっていることが分かった。
さらに、鏡の鈕孔を長方形に作る癖を持つ、ある中国工人群が三角縁神獣鏡を製作しており、その手法が魏の官営工房に繋がる可能性が強いという。
つまり魏の王朝が卑弥呼や壱与に下賜するために特別に鋳造したのが三角縁神獣鏡であるという新説が提出されている。
卑弥呼の鏡説
邪馬台国の女王、卑弥呼は魏に遣使していたとされ、中国の歴史書『三国志 (歴史書)』「魏志倭人伝」には239年(景初3年)魏 (三国)の皇帝が卑弥呼に銅鏡百枚を下賜したとする記述があることから、三角縁神獣鏡がその鏡であり、魏、または朝鮮半島の楽浪郡・帯方郡の製作であるとする説がある。
1953年(昭和28年)、京都府山城町 (京都府)(現・木津川市)の椿井大塚山古墳から神獣鏡が出土すると、小林行雄は同型の鏡が日本各地の古墳から出土している事実に着目し、邪馬台国が大和に所在し、のちのヤマト王権が卑弥呼に下賜された神獣鏡を各地の豪族に与えたとする古代政権成立過程を提唱した。
しかし、同型の鏡の分布からここまでダイナミックな過程を想定するのは無理があるとも言われている。
近年、奈良県黒塚古墳でも三角縁神獣鏡の大量副葬例があり、被葬者にとって三角縁神獣鏡はそれほど珍しくないものであったことが伺われる。
日本製鏡説等
一方で、三角縁神獣鏡と同じようなものは中国では出土しておらず、中国で既に改元された年号や実在しない年号の銘が入ったものもあることから、日本製、あるいは中国から渡来した工人の製であるとする説、また、中国製で船で日本に運ばれた舶載鏡とする説、日本で中国の鏡を真似てつくった倣製鏡説などがある。
三角縁神獣鏡に関する議論
三角縁神獣鏡が畿内を中心に出土することから、卑弥呼の鏡説をとるのは邪馬台国=畿内説をとる研究者に多く、日本製説をとるのは邪馬台国=九州説をとる者に多い。
ただし、日本製説をとる研究者の中にも邪馬台国=畿内説を主張する者がいる。
彼らの中には、三角縁神獣鏡を、卑弥呼の遣使を記念して呉 (三国)の工人などに日本で作らせたものだと主張する者もいる。
一方邪馬台国=九州説を主張する研究者は、三角縁神獣鏡全体が(魏の年号が刻まれてはいるが)後世の偽作物であると見なしている。
日本製説の研究者からは以下のような疑問点が指摘されているが、卑弥呼の鏡説の研究者からの反論もある。
疑問点
三角縁神獣鏡が出土するのは4世紀以降の古墳からのみで、邪馬台国の時代である3世紀の墳墓からは1面も出土しておらず、年代が合わない。
三角縁神獣鏡は中国国内では1面も出土しておらず、中国の鏡ではないと中国の学者が述べている。
改元されて実在しない中国の年号の銘が入った鏡がある。
卑弥呼に下賜された銅鏡は100枚だが、それをはるかに超える数の三角縁神獣鏡が出土している。
反論
邪馬台国向けに特別に作らせたものだから中国には残っていない。
景初3年は、景初4年正月となるべき月を後十二月とした年であり、その混乱を示すものである。
卑弥呼にはその後も何回か銅鏡が下賜された。
三角縁神獣鏡が出土するのは4世紀以降の古墳のみだというが、近年の年輪年代学の成果により、古墳時代の開始は3世紀に繰り上がっており、3世紀に編年される古墳から出土するので、むしろこの鏡が魏時代のものとして矛盾がないことを示している。
また景初3年、正始元年の銘の鏡もリアルタイムのものとして問題なく理解できる。
逆にこのような年号を持ちながら、邪馬台国=九州説論者の主張のようにこの鏡が邪馬台国と無関係とするならば、それこそ不自然である。
魏の鏡であるか、それとも日本製なのかについては、どちらの説にも決定的な証拠はないが、近年定説化しつつある年代観からすれば景初三年銘、正始元年銘の三角縁神獣鏡自体は紀年にあるとおり3世紀の鏡として理解できるため、邪馬台国大和説の有力な根拠のひとつとなっている。
鏡を作った者が、何らかの理由で魏の年号を使いたかったことにはほぼ間違いがない。
紀年銘をもつ三角縁神獣鏡
三角縁神獣鏡の銘文中に紀年が記された四面の鏡がある。
島根県雲南市加茂町大字神原・神原神社古墳出土の「景初三年」鏡、群馬県高崎市柴崎町蟹沢・蟹沢古墳、兵庫県豊岡市森尾字市尾・森尾古墳、山口県周南市(旧新南陽市)竹島御家老屋敷古墳の三古墳から出土した同型の「正始 (魏)元年」鏡三面である。
これらの鏡四面は、すべて文様の神像と獣形像が同じ方向に並ぶ同向式である。
「景初三年」鏡
景初三年陳是作鏡自有経述本是京師杜□□出吏人□□□(位)□(至)三公母人?之保子宜孫寿如金石
「正始元年」鏡
□始元年陳是作鏡自有経述本自州師杜地命出寿如金石保子宜孫
三角縁神獣鏡出土の古墳
会津大塚山古墳(福島県会津若松市、東北最古級)
真土大塚山古墳(神奈川県 平塚市西真土)
森将軍塚古墳(長野県千曲市、「天王日月」銘、前方後円墳、墳丘長100m)
甲斐銚子塚古墳(山梨県甲府市(旧東八代郡中道町)、前方後円墳)
一輪山古墳(岐阜県各務原市鵜沼西町、円墳)
雪野山古墳(滋賀県東近江市、前方後円墳)
赤門上古墳(静岡県浜松市、前方後円墳)
椿井大塚山古墳(京都府木津川市、前期前方後円墳、前方部撥型)
西求女塚古墳(兵庫県神戸市灘区、前方後方墳)
黒塚古墳(奈良県天理市、前方後円墳)
桜井茶臼山古墳(奈良県桜井市、前期前方後円墳、前方部柄鏡形)
備前車塚古墳(岡山県岡山市)
白鳥古墳(広島県東広島市高屋町)
那珂八幡古墳(福岡市博多区、三角縁五神四獣鏡、前期、後円部正円形でない、墳丘長約75m)
三角縁神獣鏡の出土を府県別にみると京都府が50枚以上、次いで奈良県の44枚が群を抜いており、福岡県、大阪府が30枚台である。
このことから、奈良を中心とする近畿地方(奈良・大阪・京都)に三角縁神獣鏡の出土が多いことがわかる。
さらに、近畿地方での出土数は170枚を超え、全体の二分の一以上を占めている。