中富川の戦い (Battle of the Nakatomi-gawa River)
中富川の戦い(なかとみがわのたたかい)は、1582年(天正10年)、四国統一を目指す土佐国の長宗我部元親と阿波国の十河存保との間で起きた一戦である。
四国の川中島の戦いとも言われる。
戦いまでの経緯
長宗我部元親は当初織田信長による四国征伐の備えで兵を休めていた。
しかし明智光秀による本能寺の変により信長が死んだ事により、三好康長は畿内に帰り危機は去った。
そこで元親の弟、香宗我部親泰や元親の嫡男、長宗我部信親は一気に勝瑞城を攻め落とそうと兵を進め一宮城 (阿波国)、夷山城を落とした。
その後岡豊城で一領具足を交えて軍議を開き、その結果阿波の完全制圧を目指す事となった。
元親は兵力増強の為、十五歳以上から六十歳までの領民の中で戦に参戦できる者を集めた。
中富川の戦い
8月28日に中富川にて決戦の火蓋が切られた(兵力は長宗我部23000、十河6000)。
大方の予想では、十河側は勝瑞城に籠城すると見られていた。
しかし十河側は野戦を選んだ。
十河側の先鋒が川を渡り始めるや長宗我部勢はあらかじめ上流の川をせき止めておいた堰を切った。
水を一気に流した為、十河兵は流される者が多数出た。
その後十河勢は総崩れとなり、勝瑞城へ退却した。