九州の役 (Battle of Kyushu)
九州の役(きゅうしゅうのえき)は、天正14年(1586年)7月から同15年(1587年)4月にかけて行われた、豊臣秀吉(1586年9月9日、豊臣賜姓)と島津氏との戦いの総称である。
秀吉の九州攻め・九州平定・九州征伐などの名称で呼ばれることもある。
島津氏の九州統一
九州地方は当時、薩摩国の島津氏が日向国の伊東氏、肥後国の相良氏、阿蘇氏、肥前国の有馬氏、龍造寺氏などを下していた。
さらに大友氏の重鎮立花道雪の死により大友氏の支配が緩んだ筑後国の諸国人衆も傘下に収め、九州統一を目前にしていた。
豊後国の大友義鎮は、島津氏の圧迫を回避するため、当時近畿、四国、中国地方を平定し天下統一の道を歩んでいた羽柴秀吉に助けを求める。
これを受け、関白となった秀吉は、1585年(天正13年)10月島津氏と大友氏に朝廷権威を以て停戦を命令(惣無事令)した。
しかし島津氏はこれを黙殺して九州統一戦を進めたため、秀吉は九州攻めに踏み切った。
経過
島津氏は九州統一の総仕上げとして、大友氏所領である豊前国・豊後と筑前国への侵攻を開始した。
筑前の戦い
岩屋城の戦いも参照
秀吉の到着前に九州統一を成し遂げたかった島津義弘は1586年(天正14年)6月筑前侵攻を開始、筑前の西半を制圧する。
残るは高橋紹運の守る岩屋城、立花宗茂の守る立花城、立花直次の守る宝満山城のみであった。
7月、3万以上の大軍で岩屋城を攻めた島津軍だったが、高橋紹運の抵抗によって攻めあぐねた末、なんとか攻略する。
島津方は上井覚兼が負傷、死者数千の損害を出す大誤算だった。
直後に宝満山も陥落させたが立花城は諦め包囲を解き、豊後侵攻へ方針を転換した。
この際立花宗茂は撤退する島津軍を追い高鳥居城、岩屋城、宝満山城を奪還している。
豊後の戦い
一方、秀吉は同年9月に毛利氏に出陣を命じ豊前へ向かわせた。
また十河氏・長宗我部氏にも豊後へ出陣させ大友氏と合流、島津氏の豊後侵攻軍と正面衝突することとなる。
最初のうちは大友氏の内訌等もあり、島津氏優勢に進行。
特に12月の戸次川の戦いにおいて、仙石秀久を軍監とする豊臣方は長宗我部信親、十河存保などの有力武将を失う大敗を喫した。
島津軍は勢いづき大友義統が放棄した府内城を陥落させて、宗麟の守る丹生島城を包囲した。
丹生島城は、宗麟がポルトガルより輸入し「国崩し」と名付けた仏郎機砲(石火矢)の射撃もあり、なんとか持ち堪えた。
豊臣軍の出動
宗麟は秀吉に出馬を何度も促し、翌天正15年(1587年)正月、秀吉は九州侵攻の軍令を下し、3月には自らも出陣した。
肥後方面を秀吉が、日向方面を弟の豊臣秀長が率い、合わせて20万を数える圧倒的な物量と人員で進軍した。
秀吉上陸を察知した島津軍は北部九州を半ば放棄、島津氏の支配が表面的な占領軍政に過ぎなかったこともあり、瞬く間に島津氏の支配している城を陥落させる。
島津氏は、後退を続け薩摩の守りを固める方針に変更する。
秀長率いる軍は豊後を経由し日向に入ると県を経由し山田有信の守る高城 (新納院)を包囲する。
島津義弘が救援に向かうが、根白坂の戦いで島津忠隣が戦死するなどの大敗を喫し、高城は陥落する。
さらに豊臣秀次は都於郡城を攻略し小林市と野尻町の境界にある岩牟礼城まで侵攻した。
義弘は飯野城に籠り徹底抗戦を装った。
一方秀吉は秋月種実の岩石城を攻略、島原方面では有馬晴信の調略に成功した。
島津忠辰は高田を放棄して出水にまで撤退する。
秀吉は八代、水俣を経て島津方の予想を上回る速さで出水にまで進軍し、出水城主島津忠辰を降伏させた。
さらに島津忠長を蹴散らし川内の泰平寺 (薩摩川内市)に本陣を置く。
4月、島津義久が泰平寺に赴き降伏した。
戦後処理
義久が降った後も、飯野城に籠った島津義弘、婿養子の忠隣を殺された島津歳久らの抵抗が続いた。
最終的に島津氏は九州の大部分を没収されたが、石田三成と伊集院忠棟による戦後処理の結果、薩摩・大隅国の2国を安堵され九州征伐は終了した。
秀吉は秀長を通じて戸次川の戦いで嫡男信親を失った長宗我部元親に大隅一国を与えようとしたが、元親は固辞した。
その他、島津氏と結んでいた筑前の秋月種実が日向に移封され、大村氏との対立から長崎港の襲撃や南蛮船からの通行料徴収を強要などを繰り返していた深堀純賢を海賊禁止令違反として所領没収にするなどの処分が行われた。
影響
豊臣秀吉は西国を平定し、朝鮮や琉球への服属を求めた接触を始めることとなる。
また、残す東国の平定を目指した。
そして関東の後北条氏、奥州の伊達氏へと矛先を移した。