乱妨取り (Ranbodori)
乱妨取り(らんぼうどり)とは、戦国時代_(日本)から安土・桃山時代にかけて戦いの後で兵士が人や物を掠奪した行為。
一般には、これを略して乱取り(らんどり・乱取)と呼称された。
当時の軍隊は農民が多く、食料の配給や戦地での掠奪目的の自主的参加が見られた。
人狩りの戦利品が戦後、市に出され、大名もそれら乱暴狼藉を黙過したり、褒美として付近を自由に乱取りさせた。
それら狼藉は悪事ではなく当時の常識であった。
凶作・水害・疫病が起こると大名は食料獲得のため隣国へ戦争をした。
その結果として領土を勝ち得、家臣団に与えて下克上の芽を摘み取った。
戦場付近の村を襲い農作物を根こそぎ奪い、女・子供をさらい売り払うか奴隷にするかした。
桶狭間の戦い
織田信長の勝因を、「民家への略奪行為で油断する今川方を急襲したから」とする説を、黒田日出男東京大学名誉教授が唱えている。
明治時代には陸軍を中心に迂回奇襲説が、近年では信長公記に基づいて正面攻撃説が主流であった。
だが、黒田は甲陽軍鑑に着目し、「記憶違いはあるが、悪意の捏造はなく、体験に基づく良質な史料」と断定。
当時武田氏と今川氏は同盟していたため「敗因を間違えるとは考え難く、第三者が敗者から得た信頼できる情報に基づく」とした。
甲陽軍鑑には「その日の(事前にあった別の)戦いに勝ったと思った今川軍が略奪に散る中、織田軍が味方のように入り交じり、義元の首を取った」とあり、又別の史料で徳川家康が「今川軍が略奪し、油断していた」と証言したのも確認。
黒田は略奪を”乱取り”と呼び、新説を「乱取り状態急襲説」と名付けた。