京極騒乱 (Kyogoku Soran)

京極騒乱(きょうごくそうらん)は、室町時代から戦国時代 (日本)にかけて近江国において起こった京極氏の家督相続を巡る御家騒動の一つ。

概略

1470年(文明 (日本)2年)の京極持清の病没から始まり、1505年(永正2年)の孫・京極高清の領国統一までの34年間を指す。
京極高清が後に起こした家督相続争いとは別のものである。

文明の内訌や文明の乱とも呼ばれるが、同時期にあった事変の別称でもある為、ここでは“京極騒乱”で統一する。

『文明の内訌』は、同時期に信濃国守護職・小笠原氏の御家騒動。

『文明の乱』は、応仁の乱の別称(応仁・文明の乱)。

家督相続争い

応仁の乱の最中に京極氏は、惣領・持清と嫡子(長男)・京極勝秀が立て続けに病死した為、跡目を決めなくてならなくなくなった。
持清は嫡孫である勝秀の次男・孫童子丸よりも勝秀の長男・乙童子丸を溺愛していた為、一族・家臣の中で意見が分かれる事になる。

そして、家督を巡り勝秀の嫡子・京極孫童子丸派と勝秀の庶子・京極乙童子丸派の間で争いが起こる。
孫童子丸派には持清の次男・京極政経と一族出の近江国守護代・多賀高忠が付き、乙童子丸派には持清の三男・京極政光と飛騨国守護代・多賀清直が付いて、京極家中を巻き込んだ事態へと発展する。
同年に叔父・政経を後見役に孫童子丸が家督を継ぎ近江・飛騨・出雲国・隠岐国守護職に補任される。

しかし、御家騒動は収まらず乙童子丸派の政光と清直は、1470年(文明2年)8月に西軍へ寝返り、六角政頼と和睦して孫童子丸派を攻勢を強める。
翌年の1471年(文明3年)に孫童子丸が夭折し、新たな跡目争いが起きる。

政光は美濃国小守護代の斎藤妙椿に援助を受け、1472年(文明4年)9月末に西軍の京極乙童子丸・京極政光・多賀清直・多賀宗直・六角政頼・斎藤妙椿ら連合軍は孫童子丸派を破り、政経・高忠らを越前国へ敗走させる。
叔父・政光を後見役に乙童子丸が家督を継ぎ飛騨・出雲・壱岐国守護職となる。
同年に後見役だった叔父・政光が病死し、守護代の多賀清直・宗直父子が乙童子丸を補佐する。

分国の出雲へ落ち延びていた政経と高忠は、1475年(文明7年)9月に出雲の国人衆を率いて上洛した。
延暦寺僧兵と信濃国・小笠原家長ら東軍の支援を受けて、近江国へ進攻し観音寺城下で西軍の六角政頼・京極高清(乙童子丸)・多賀清直・多賀宗直の連合軍と戦い大勝する。
敗れた六角勢は観音寺城へ籠城し、京極勢は江北へ撤退する。

同年10月に、美濃国守護職の土岐成頼と越前国・尾張国・遠江国守護職の斯波義廉の援軍が近江国へ到着し、西軍の反撃が始まる。
高清は西軍の六角高頼・斯波義廉・土岐成頼・斎藤妙椿ら連合軍と共に京極政経・多賀高忠らを破り、高忠を京都に敗走させるも一進一退の攻防は応仁の乱後も続く。
家臣・多賀宗直が1486年(文明18年)に反乱を起こした為、高清は近江国甲賀へ逃れたが、1487年(長享元年)に江北へ戻り宗直を討ち果たす。

征夷大将軍・足利義尚は1487年(長享元年)8月に、幕府の威信回復を目指し自ら六角氏へ征伐(長享・延徳の乱)を行う。
高清は美濃国の守護代・斎藤利国を頼り、六角征伐の最中の1488年(長享2年)8月に挙兵した。
高清は京極政経・多賀経家らを近江国松尾で戦い破り、政経と経家を伊勢国梅津へ敗走させた。
政経が北近江に復帰した為、高清は1490年(延徳2年)に越前国敦賀へ逃れる。
将軍・足利義稙から、1492年(明応元年)に家督(京極氏惣領職)を認められ、翌年に高清は北近江に復帰する。

しかし、1497年(明応5年)に庇護を受けていた斎藤利国が亡くなると、勢力を盛り返した政経に追われて美濃国海津に寄留する。
その後、京極氏重臣・上坂家信の助力により政経を近江から追い払い、1499年(明応7年)に江北へと帰還する。
政経は出雲国の尼子経久を頼り下向し、1505年(永正2年)に政経の子で従兄弟の京極材宗と和睦し、34年続いた家督争いを終える。

[English Translation]