令制国 (Ryosei province)

令制国(りょうせいこく)とは、律令制に基づいて設置された日本の地方行政区分である。
奈良時代から明治初期まで、日本の地理的区分の基本単位であった。
律令国(りつりょうこく)ともいう。
蝦夷国は正式な令制国ではなく俗称であり、また琉球国は当初大和朝廷の影響が及んでいなかった。
このため、ここには含まない。
蝦夷国は1869年に北海道 (令制)の名称で広域地方行政区画とされ、琉球国は1871年に令制国として鹿児島県に編入し、後に沖縄県とした(世界大百科事典参考)。

令制国の行政機関を国衙(こくが)または国庁(こくちょう)といい、国衙の所在地や国衙を中心とする都市域を国府(こくふ)といった。
国府は府中と呼ばれることもあった。

用語
令制国が行政体・地理区分の基本単位として用いられていた時代には、正式にも慣用的にも「国」とだけ呼ばれていた。
後代の20世紀には「旧国」「旧国名」とも呼んだ。
律令のうち、令によって規定される制度を令制というので、令制の国を令制国と呼ぶ。
「令制国」という語は、20世紀末に用いられ始めた歴史学の用語であり、早いものでは1980年代半ば頃から使用例が現れている。
しかし1984年2月に吉川弘文館から発行された『国史大辞典 (昭和時代)第4巻』では令制国のことは「国」の項目で説明されており、文中にも「令制国」と呼ぶといった説明はない。

令制国の成立
日本の古代には、令制国が成立する前に、土着の豪族である国造(くにのみやつこ)が治める国と、県主(あがたぬし)が治める県(あがた)が並立した段階があった。
それに対して、令制国は、中央から派遣された国司が治める国である。

令制の国が何時成立したについての定説はまだないが、『日本書紀』には、645年の大化の改新の際に、東国に国司を派遣したという記事があり、飛鳥から出土した木簡削片に「伊勢国」「近淡□(海)」などと書かれていることが分かっている。
したがって、天武朝の初め670年代には成立していたと考えられている。
令制国が確実に成立したと言えるのは、701年(大宝 (日本)元年)に制定された大宝律令からである。
故に、令制国の成立時期は早ければ645年、遅ければ701年となる。
この間の段階的な制度変化の結果であった可能性も高い。

令制国成立に伴い分割された国
毛野国(上野国、下野国)
総国(上総国、下総国、安房国)
越国(越前国、加賀国、能登国、越中国、越後国、佐渡国、出羽国)
丹波国(但馬国、丹後国を分離)
伊勢国(志摩国を分離)
河内国(和泉国を分離)
吉備国(備前国、美作国、備中国、備後国)
筑紫国(筑前国、筑後国)
肥国(肥前国、肥後国)
豊国(豊前国、豊後国)
熊襲(? 日向国成立後、薩摩国、大隅国を分離)

律令制下
奈良時代初期の713年(和銅6)に、元明天皇は、令制国毎に「風土記」という地誌の編纂を命じた。
現在、出雲国風土記、常陸国風土記、播磨国風土記、肥前国風土記、豊後国風土記の物が、一部残存している。

同年5月に畿内と七道諸国の郡(こおり)・郷(さと)の名に好字(よいじ)を付けるように命じた。
全国の国名が漢字2文字に統一されている。

738年(天平10)諸国の国郡図を進上させる。
739年(天平11)年末頃から740年(天平12)初めの頃に郷里制を郷制に改める。

740年代に聖武天皇が政権に就いた時期には、平城京では疫病が蔓延し、社会不安が広がっていた。
これを払拭すべく、光明皇后の意見も有って、741年(天平13)令制国には国分寺(国分僧寺)・国分尼寺の建立の詔を出した。

800年頃に出された延喜式には、各令制国における郡の個数が記載された。

中近世
律令制が事実上崩壊してからも、鎌倉時代においては、依然として各国に国衙が置かれ、国を支配していた。
南北朝時代 (日本)に戦乱が全国に及ぶと、守護大名の力が増大し、国衙も支配するようになった。
それにともない室町時代には守護による守護領国制支配が進行した。

戦国時代 (日本)になると、律令時代からの行政体としての国は消滅した。
国司は、完全に名目だけの官職となり、戦国大名が領国支配の正当性を主張するために欲するようになる。
安土桃山時代と江戸時代には、地方統治は大小多様の大名と、大名に準ずる領主、江戸幕府の直轄領に分割された。
領有が細分化した地方に特別な機関を置く場合を除いて、国を単位とする行政体はなかった(ただし国司を任じていたことから、名目のみ行政区分としての令制国は存在していた)。
しかし、戸籍等の住所の表示には令制国が用いられ、欠かせない地理区分であった。

明治以後
江戸時代までとの大きな違いは国司を廃止したことであり、国司廃止によって名実共に行政的な地理区分ではなくなってしまった。
明治政府は、陸奥国から4国を分立させ、出羽国を2国に分割し、北海道 (令制)に11国を新設し、さらに琉球国を置いて85国としたが、国単位での行政機関を置かなかった。
1871年の廃藩置県は藩を廃止したもので、国はその後も府県と併用された。
1885年までは北海道において令制国の範囲改定が行われたりしていたことから少なくともこの年までは制度上も用いられていた.
しかし、それ以降領有した日本統治時代 (台湾)・日本統治時代の朝鮮などの外地に新たな令制国は設定されなかった。
法令による廃止はされていないが、とりわけ戸籍・郵便等の地名表記から外されたことにより急速に廃れ、反対に府県は急速に定着した。
現代では、同じ地名を呼び分けるときや(摂津本山駅←→長門本山駅など)、都道府県名を嫌う場合(長野県←→信州など)、地域名(泉州、筑豊など)、地域ブランド名など(讃岐うどん、但馬牛、薩摩焼など)に旧国名が利用されている。
また、北海道条例・国法においては「法務局及び地方法務局の支局及び出張所設置規則」において、支庁や法務局およびその下部組織の所管区域を示す規定中に令制国が示されているものもある。

令制国の数

令制国は、奈良時代までと明治時代に大きな改廃がなされたが、その間の平安時代から江戸時代までの長期にわたって変更がなかった。
その数は68であるが、66とされることも多かった。
(この場合、対馬・壱岐国が「嶋」としてはずれる)例えば11か国を守護領国とした山名氏は、全国の六分の一の国を領したという意味で「六分一殿」と呼ばれた。
「全国一宮一覧」など全ての国を列挙するような場合には、実際の国の数と合わないので、備前・備中・備後をまとめて吉備とする(ただし、備前から分かれた美作はそのまま)など無理に2国減らして66にすることも行われた。
「六十余州」と表現することもあった。

[English Translation]