保元の乱 (Hogen Disturbance (Hogen-no-ran))
保元の乱(ほうげんのらん)は、平安時代の保元元年(1156年)に崇徳天皇と後白河天皇が対立し、上皇側に天皇側が奇襲を仕掛けた事件である。
経過
乱の原因
永治元年(1141年)、鳥羽天皇は藤原璋子との子である崇徳天皇を退位させ、藤原得子との子である躰仁親王(崇徳上皇の弟)を即位させた(近衛天皇)。
崇徳天皇が鳥羽法皇の祖父白河天皇の子だとする風説が流布されており、鳥羽法皇は崇徳天皇を「叔父子」と呼んで忌み嫌っていたとされている。
しかし、これは『古事談』のみの記述であり、信憑性を疑問視する学説もある。
久寿2年(1155年)に近衛天皇が崩御すると崇徳上皇は御子の重仁親王の即位を望むが、父・鳥羽法皇は美福門院や近臣の藤原通憲の推す雅仁親王(崇徳上皇のもう一人の弟)を後白河天皇として即位させてしまう。
崇徳上皇は深くこれを怨んだ。
摂関家でも関白藤原忠通と左大臣藤原頼長の兄弟が争い、忠通は後白河天皇に、頼長は崇徳上皇に接近した。
崇徳上皇と後白河天皇の対立は深まり、両派はそれぞれ武士を集める。
上皇方には源為義、源頼賢、源為朝、源頼憲(多田頼憲)、平忠正らが、天皇方には、源義朝、平清盛、源頼政、源義康(足利義康)らが味方する。
兵力的には天皇方が優勢であった。
保元元年(1156年)7月2日 (旧暦)、鳥羽法皇が崩御すると、両派の衝突は不可避の情勢となった。
合戦の経過
保元元年(1156年)7月6日 (旧暦)、宇治市の警護にあたっていた平基盛(清盛の次男)が、上皇方に参陣しようとしていた大和源氏の源親治(宇野親治)を捕える。
7月10日 (旧暦)、両軍は賀茂川を挟んで対峙、上皇方は白河北殿、天皇方は東三条殿に本陣を置き、後白河天皇は高松殿にあった。
上皇方では為朝が高松殿を夜討して天皇を奪うことを献策したが、頼長が皇位をかけた戦いは白昼堂々と行うものだとしてこれを退けた。
(『愚管抄』では為義が先手を打って内裏を占領するなど三策を献策したことになっている。)
一方、天皇方の軍議では義朝が夜討を献策してこれが容れられる。
7月11日 (旧暦)未明、天皇方は清盛300余騎、義朝200余騎、義康100余騎の3隊に分かれて白河北殿を奇襲。
清盛が為朝の守る西門を攻めるが、為朝の強弓の前に打ち負かされる。
代わって義朝が西門を攻めるも、これまた為朝の強弓に撃退される。
天皇方は頼政、源重成、平信兼らの軍兵を投入するが、上皇方は各門で奮戦して激闘が続く。
義朝は後白河天皇に火攻の勅許を求め、これが許されると天皇方は白河北殿の西隣にある藤原家成邸に放火、火が燃え移ったため上皇方の兵は先を争って白河北殿から逃走。
戦闘は終結する。
戦後
7月27日 (旧暦)、天皇方が上皇方の公卿・武士らの罪を定めた。
7月28日 (旧暦)、平清盛が六波羅で
平忠正
平長盛
平忠綱
平正綱
忠正の郎等道行
を斬る。
7月30日 (旧暦)、源義康が大江山で
平家弘
平康弘
平盛弘
平光弘
平頼弘
平安弘
を斬る。
同日源義朝が船岡で
源為義
源頼賢
源頼仲
源為成
源為宗
源為仲
を斬る。
子が親を斬り、甥が叔父を斬るというむごい仕打ちが行われた。
そもそも死罪は薬子の変以来200年以上行われていなかったが、信西が復活させたものである。
『法曹類林』を著すほどの法知識を持った信西の裁断には反対するものはなかった。
また、崇徳上皇も讃岐国に流され、京に帰れぬまま不遇の最期を遂げた。
為朝は逃れたが、後に捕まり、自慢の弓を射ることができないよう、左腕の筋を抜かれてから伊豆大島に流されたと言われている。
こうして後白河天皇は反対派の排除に成功した。
しかし、宮廷の対立が戦闘によって解決したこと、とりわけ京都市街を戦場とし、数百年ぶりに死刑が執行されたことは、当時の人々に大きな衝撃を与え、貴族から庶民まで武士の力を強く印象づけることとなった。
鎌倉時代の歴史書『愚管抄』は、この乱が「武者ノ世」の始まりであり、歴史の転換点だったと論じている。
この乱は、3年後の平治の乱の遠因ともなり、さらには日本最初の武士政権である平氏政権の成立、また関東武士団を基盤とする鎌倉幕府の成立をもたらすこととなる。
文学作品
物語
『保元物語』は保元の乱を題材にした軍記物語文学。
作者不明で全三巻。
鎌倉時代に成立したと考えられている。
『雨月物語』に含まれる小説「白峰」は、保元の乱に敗れた崇徳上皇の亡霊を題材にした怪談。
作者は上田秋成という人物。
江戸時代に書かれた。
俳句
鳥羽殿へ五六騎いそぐ野分かな
与謝蕪村