信長包囲網 (Anti-Nobunaga network)
信長包囲網(のぶながほういもう)は、戦国時代_(日本)末期より安土桃山時代初頭にかけて、室町幕府征夷大将軍 足利義昭とその後ろ盾である織田信長との対立に由来する義昭主導の反信長連合の俗称。
参加勢力
足利義昭
浅井長政
朝倉義景
石山本願寺
雑賀衆(雑賀一揆)
延暦寺
三好義継
三好三人衆
松永久秀
武田信玄
近衛前久(信長に追われて石山本願寺に亡命中。
ただし、義昭とも対立関係にあった)
六角義賢
など
概略
尾張国を平定し、美濃国、伊勢国、近江国へと進出した織田信長は将軍足利義昭を奉じて上洛し、三河国の徳川家康と同盟し畿内の平定や本願寺攻め(野田城・福島城の戦い)を進めていた。
信長と義昭の関係は当初は良好であったがしだいに険悪化し、元亀元年(1570年)に義昭は独自の外交を志向しはじめる。
義昭は反織田勢力に呼びかけ、自身を盟主に織田家に反発する近畿地方の諸勢力を団結させ、包囲網が結成された。
同時期に甲斐国の武田信玄は信濃を平定して領国を拡大し、信玄後期には外交方針が転換し駿河侵攻が行われていた。
信長は美濃平定で武田領国と接していたため武田と誼を通じ、駿河侵攻に際しては将軍義昭に周旋して甲越和睦の調停を試みており友好路線をとっていた。
が、駿河を平定した武田は甲相同盟を回復すると、元亀2年(1571年)10月には大規模な遠江・三河侵攻を行い織田・徳川連合との対立が決定的となる。
信玄には織田・徳川連合を駆逐して上洛意図のあったことが指摘されており、元亀3年(1572年)には西上作戦が開始される。
同年10月には三方ヶ原の戦いで家康を撃破し、さらに西上した。
同年12月に浅井長政の援軍として近江国において織田軍と対峙中の朝倉義景が、突然本国への撤退を始めた。
この撤退によって信玄がもくろんでいた織田軍分散計画は破綻。武田軍の進軍速度は極端に鈍った。
翌年3月には京都で将軍義昭が挙兵するものの信長に制圧され、4月には信玄が死去し、西上作戦は中止された。
最大の脅威であった信玄が死去したことを知った信長は一気に攻勢に出た。信玄なき今、もはや信長と立ち向かえるほどの余力が残された勢力はなく、なすすべもなく各個撃破されていった。
こうして信玄の死から一年足らずで浅井・朝倉・三好といった勢力は信長に滅ぼされ、将軍足利義昭も京から追放された。
結果
足利義昭 京から追放、備後へ下向。
毛利氏の元に身を寄せる。
浅井長政 攻められ滅亡。
朝倉義景 攻められ滅亡。
石山本願寺 信玄死去後、活動沈静化。
雑賀衆 信長をおおいに苦しめるが、後に誓紙を差し出し降伏。
延暦寺 比叡山焼き討ち (1571年)にあい壊滅状態に。
三好義継 攻められ滅亡。
三好三人衆 攻められ壊滅状態に。
松永久秀 信長に降伏。
武田信玄 信玄死去後、跡継ぎの武田勝頼は本国甲斐に退却。
近衛前久 義昭追放後、信長と和解して帰京。
以後、親信長派に転じる。
六角義賢 信長に降伏。
参加勢力
足利義昭
波多野秀治
山名祐豊
石山本願寺
毛利輝元
宇喜多直家
村上吉充
上杉謙信
松永久秀
雑賀衆
別所長治
荒木村重
武田勝頼
など
概略
1576年、波多野秀治、山名祐豊といった従属勢力が信長から離反。
さらに石山本願寺も再び挙兵。
信長はわずかな手勢で本願寺勢を破るが、毛利水軍に第一次木津川口の戦いで敗れ撤退する。
その後上杉謙信とも敵対関係に陥り、それを好機と見た松永久秀が反旗を翻した(信貴山城の戦い)。
その後、信長に属していた雑賀衆、別所長治、荒木村重もこれに呼応する。
北陸方面でも手取川の戦いでの敗退により、侵攻停滞を余儀なくされる。
窮地に立たされた信長だが、1578年に包囲網の最大勢力上杉謙信が急死し、危機を免れ、1580年の石山本願寺明け渡しによって事実上崩壊した。
結果
波多野秀治 近畿攻略軍の明智光秀に屈し降伏、処刑され、一族は滅亡する。
山名祐豊 祐豊は中国攻略軍の羽柴秀吉に包囲されている最中に死去。
跡継ぎの山名堯熙は降伏し、家臣となった。
石山本願寺 信長と和睦を結び大坂を退去(石山合戦)。
毛利輝元 中国攻略軍の羽柴秀吉の攻勢に防戦一方となる(上月城の戦い、鳥取城の戦い、備中高松城の戦い)。
宇喜多直家 不利となると信長方へ離反する。
村上吉充 村上水軍の一翼を担う来島氏が信長方へ離反する。
上杉謙信 謙信死去後、御館の乱を経て後継者となった上杉景勝は北陸攻略軍の柴田勝家の攻勢に防戦一方となる。
松永久秀 攻められ信貴山城の戦いで滅亡。
雑賀衆 信長に攻められ滅亡寸前に追い込まれるが、本能寺の変によって九死に一生を得た。
別所長治 攻められ滅亡(三木合戦)。
荒木村重 攻められ妻子や城兵を見捨て逃亡。
武田勝頼 攻められ天目山の戦いで滅亡。
信長の野望シリーズ
コーエーの歴史シミュレーションゲーム『信長の野望シリーズ』において、四作目の『信長の野望・武将風雲録』以降のほとんどの作品では「信長包囲網」の名を冠したシナリオが存在する。
1570年開始で、信長と対立した将軍・足利義昭が武田家や本願寺家等の各地の大名に織田家やその盟友である徳川家と対立するよう呼びかけ、それらの反信長大名らは互いに同盟を結び合っているという形で史実における「信長包囲網」が再現されている。