倒幕運動 (Tobaku movement)

倒幕運動(とうばくうんどう)は、主として江戸時代後期の幕末に、江戸幕府を打倒して政権打倒を目的とした幕末の政治運動を意味する。
狭義では、武力で倒すことを目的とした討幕運動を指すが、広義では、軍事衝突を回避した政権移譲を目指す政治工作も含めて倒幕運動と呼ぶ。

更に今日では、鎌倉幕府末期の後醍醐天皇が主導した鎌倉幕府倒幕の動き(正中の変・元弘の変)のことも「倒幕運動」と呼ぶこともある。

概要

江戸時代には日本の古典研究などを行う国学が発達し、外国船の来航が多発し、アメリカのマシュー・ペリーやロシアのプチャーチンらが来航して通商を求めると、幕府は条約締結に際して朝廷の勅許を求めたため、天皇、朝廷の伝統的権威が復興する。

幕府が諸外国と通商条約を締結して開国を行うと、在野の志士(活動家)たちは、水戸学の思想的影響のもと、名分論に基づき攘夷を断行しない幕府に対する倒幕論が形成された。
幕府は朝廷権威に接近して権力の再構築を図る公武合体政策を行うが、公家の岩倉具視や、薩摩藩の西郷隆盛(吉之助)、大久保利通、小松帯刀、長州藩の桂小五郎(木戸孝允)、広沢真臣などの尊皇攘夷派らは、王政復古、武力討幕路線を構想する。

長州藩は没落して朝敵となるが、攘夷派であった孝明天皇の崩御、薩長同盟で薩摩と長州が密約を結ぶと、15代将軍の徳川慶喜は大政奉還を行い公議政体構築を目指すが、王政復古 (日本)により明治政府が成立、鳥羽伏見の戦いで旧幕府軍が敗北し、徳川慶喜に対する追討令が出ると、法的には幕府機構は消滅しているものの武力討幕運動が盛んになる。

倒幕への経過

帝国主義時代に入った欧米列強の進出・侵略の手は東アジアにも迫った。
中国ではイギリスとの間にアヘン戦争が起こり香港島が奪われた。
日本では諸外国が通商を求める出来事や、摩擦・紛争が起こり始めた。
アダム・ラクスマンの来航(寛政4年(1792年))、フェートン号事件(文化5年(1808年))やゴローニン事件(文化8(1811年))がそれらの例である。
江戸の天下泰平の世の中(鎖国体制下の社会)を乱されたくない・邪魔されたくないといった心情は、攘夷運動になっていった。

政権を担当する者・勢力はいつの世でもそうすることが多いが(そうなることが多いが)、黒船に象徴される圧倒的な武力を見せ付けられた江戸幕府は、現実的な解として、開国を選択する。

朝廷が攘夷の意志を示す。
孝明天皇自身が賛同したか否かは意見が一致しない。

江戸時代後期ごろ、日本の古典を研究する学問国学のなかから、“外来宗教伝来以前の日本人固有の考え方”という発想が起こった。
良寛坊主が残した戒語のひとつ「好んで唐言葉を使う」によって表される社会の気分・雰囲気から生まれたものだと思われる。
この発想で追求された“日本人固有”の行き着くところは天皇になり、外圧の高まりとともに尊皇攘夷も高ぶっていくことになった。
政治の重心が、京都に移行する。

十四代将軍家茂の上洛の折、京都の治安悪化が懸念され浪士組が結成される。
その浪士組のうち、京に残った派が新選組結成。
(のちに憲兵のような役割を果たす)

朝廷からの攘夷願いを無視できず、幕府は形式的な攘夷命令を諸藩に下す。

薩摩藩は薩英戦争、長州藩は下関戦争を引き起こし、いずれも大敗する。

薩摩藩は、薩英戦争の経験から攘夷は不可能であると判断し、開国に論を変え、藩力の充実と先進技術の取得に努めることになった。
長州藩は下関戦争の後尊皇論を基盤に藩論は攘夷で維持していたが、1865年、日米修好通商条約に孝明天皇が勅許を出したことにより尊皇と攘夷は結びつかなくなり、攘夷の力が失われた。
土佐藩の坂本龍馬らの仲介があって、薩摩藩と長州藩は和解、倒幕の密約を結ぶ。
後、西の諸藩が倒幕の元に終結する。

長州藩は、俗論党により途中「幕府恭順」姿勢を見せるも、その前後は反幕府という姿勢だった。

薩摩藩・土佐藩などは、当初は公武合体・徳川家を議長とする諸侯会議を目標としていたが、ある段階から幕府を見切り、それまでの敵の長州藩と手を結んだ。

1867年10月14日に密かに薩長に討幕の密勅がだされた(捏造説もある)。
しかし、土佐藩主山内豊信らの進言・尽力により、同じ日に徳川慶喜は大政奉還した。

関ヶ原の戦いと倒幕運動

徳川家康による江戸幕府創設を決定付けた1600年の関ヶ原の戦いは、皮肉にも200年以上の時を超え各大名に多くの教訓を残し、それは倒幕運動へとつながっていく。
特筆すべきは、倒幕の主役となった薩摩・長州・土佐藩の場合である。

薩摩藩

島津氏が西軍に付いたのは、当時の情報収集能力の欠如が原因と言われる。
当時の島津氏は上方の情勢に疎かったがために西軍に付かざるを得ない状況となり、この反省から、以後薩摩藩は独立王国の様相を呈し始め、各地に密偵を配置し、情報収集力の増強に努めた。
越境してきた密偵はたとえ幕府関係者であろうと厳しく断罪し、情報の漏洩防止に努め、密貿易によって外貨を蓄え続け、幕府に勝る軍事力を獲得した。

このような繋がりの増強は、後の倒幕運動にも生かされるようになり、薩摩藩は終始佐幕派を装いつつ、結果として秘密裏に薩長同盟を締結する事に成功した。

長州藩

毛利氏の場合、中立の立場をとったにも関わらず減封という結果になり、長州藩内には徳川家への怨恨が蓄積するようになった。
長州藩は江戸期全体を通して表向きは幕府に恭順の姿勢をとる普通の藩として存在していたが、毎年正月には幕府への怨恨を確かめる儀式を執り行っていたと伝えられる(確たる証拠はない)。
それが最も爆発したのは吉田松陰という青年が出現した幕末期である。
安政の大獄によって吉田が処刑されると、これを機に長州藩は終始幕府への敵対心をむき出しにし、その結果禁門の変を起こし、二度に渡る幕府からの征討を受けた。
この間、俗論党という佐幕派勢力によるクーデターも起き、藩論は一時佐幕に傾いた事もあるが、高杉晋作率いる奇兵隊によって俗論党政権は掃討され、再度藩論は倒幕に動くこととなった。
関ヶ原の戦いで生じた怨恨を直に徳川家にぶつけたのが、この長州藩であった。
その直接さがゆえ、徳川慶喜は維新後、長州に対しての恨みが消えていったが、佐幕派を装いつつ結果的に寝返った薩摩に対しての恨みは強かったと言われる(司馬遼太郎著『最後の将軍 徳川慶喜』『竜馬がゆく』ほか)。

土佐藩

土佐藩の場合、この関ヶ原の戦いはその後多くの悲劇を生んだ。
戦前、土佐は長宗我部氏の支配にあったが、結果領地没収の憂き目にあい、土佐には新しい城主・山内一豊を迎えることになった。
だが、一豊は徳川家康、徳川秀忠に、旧臣の長宗我部氏の家臣達を排除する事を命令されていた。
この命令に従って山内氏は長宗我部氏の家臣達を郷士、自身の家臣達を上士と区別し、差別化を図った。
さらに、大坂の役にて長宗我部氏が断絶すると、上士達は200年以上に渡って郷士に激しい差別を与え続けた。

この怨恨により、郷士から武市瑞山、坂本龍馬、中岡慎太郎といった人材が生まれ、彼らの活躍により倒幕運動は一気に早まった。
ただし、坂本や中岡にとっては、恨みの対象は徳川家ではなく、上士・郷士という差別を生み出した幕藩体制そのものにあり、彼らは怨恨を越えて後藤象二郎、板垣退助といった上士と手を組み、幕府に大政奉還を促した。
しかし活躍した郷士達はそのほとんどが明治維新を見ることなく非業の死を遂げる。
中には武市のように当時の藩主山内容堂によって無実の罪を着せられ処刑された者も少なくなかった。
結果、倒幕を行ったのは、関ヶ原の戦いによって徳川家におとしめられた郷士達ではなく、徳川家によって余りある恩を受けた上士達であった。
土佐藩兵は板垣を大将に戊辰戦争でよく活躍しており、さらに大政奉還の青写真を描いたのは坂本龍馬であったが、それを実行に移したのは容堂であった。
そして、明治新政府内で栄進したのは、後藤や板垣といった上士にほぼ限られている。
この事は、容堂が藩内の勤皇志士を弾圧する一方で朝廷に奉仕し、かつ幕府にも良かれという行動を取ったことから来ている。
結果、容堂は幕末の四賢侯の一人に挙げられていながらも、討幕運動が盛んになり続けても逆に幕府を擁護したため幕末及び明治初期の政局に混乱をきたす事となり、彼の評価は芳しい物ではなくなっていく。
まさに歴史の皮肉としか言えないが、幕府が容堂を藩主にまで押し上げた事実を考えれば、当然の事でもあった。

[English Translation]