元禄赤穂事件 (Genroku Ako Incident)

元禄赤穂事件(げんろく あこうじけん)とは江戸時代中期に発生した主君仇討ち事件の現代的表現。
古来赤穂浪士の仇討ち(あこう ろうしの あだうち)、吉良邸討ち入り(きらてい うちいり)などと呼ばれた事件で、曾我兄弟の仇討ち、伊賀越えの仇討ちと並んで「日本三大仇討ち」に数えられる。

元禄14年3月14日 (旧暦)(グレゴリオ暦1701年4月21日、以下本記事中の年月日は旧暦、括弧内に西暦を添えた)に江戸城中で播磨国赤穂藩藩主の浅野長矩が高家旗本のに対して遺恨有りとして殿中刃傷に及ぶが、討ち漏らして切腹処分となった。
その後、浅野の遺臣である大石良雄以下赤穂浪士47名(四十七士)が翌15年12月14日 (旧暦)(1703年1月30日)に吉良屋敷に討ち入り、主君に代わって吉良上野介を討ち果たし、その首を泉岳寺の主君の墓前に捧げたのち、幕命により切腹した。
この一連の事件を指す。

この事件は一般に「忠臣蔵」の名でも知られているが、この名称は本件を題材とした人形浄瑠璃と歌舞伎の『仮名手本忠臣蔵』の通称、およびそこから派生したさまざまな作品群の総称であり、本件自体を指す語ではない。

経緯

松之大廊下の刃傷

元禄14年2月4日 (旧暦)(1701年3月3日)、江戸下向が予定されていた東山天皇の勅使柳原資廉(前の大納言)、高野保春(前の中納言)ならびに霊元天皇の院使清閑寺熈定(前の権大納言)を接待するために江戸幕府は勅使饗応役として播磨国赤穂藩主の浅野長矩、院使饗応役として伊予国宇和島藩伊予吉田藩主の伊達村豊をそれぞれ任じた。
両名の指南役は高家の肝煎・吉良義央であった。

勅使、院使は3月11日 (旧暦)(同年4月18日)に江戸に到着し、幕府の伝奏屋敷(現在の日本工業倶楽部がある辺り)に入った。
浅野内匠頭もこの前日には伝奏屋敷入りしており、以降数日間にわたり吉良の指南を受けながら勅使の饗応にあたるはずであった。
勅使たちは翌12日(4月19日)には江戸城へ登城の上、征夷大将軍徳川綱吉に勅宣、院宣を伝奏。
また3月13日 (旧暦)(4月20日)には猿楽能を観賞している。

3月14日 (旧暦)(4月21日)、この日は勅使、院使が江戸城に登城して将軍綱吉が先の勅宣と院宣に対して返事を奏上するという奉答の儀式が執り行われる予定になっていた。
しかし同日巳の刻(午前10時ごろ)、江戸城本丸御殿松之大廊下(現在の皇居東御苑)において吉良上野介と旗本梶川頼照が儀式の打合せをしていたところへ、突然、浅野内匠頭が吉良上野介に対して脇差による殿中刃傷に及んだ。
吉良上野介は額と背中を斬られるが、側にいた旗本の梶川頼照がすぐさま浅野内匠頭を取り押さえ、また居合わせた品川伊氏、畠山義寧ら他の高家衆が吉良を蘇鉄の間に運んだ。
梶川がのちに記したところによると浅野はこの際に「この間の遺恨おぼえたるか」という叫びとともに斬りかかったという。

捕らえられた浅野は幕府目付の多門重共と近藤重興の取調べを受けたが、多門は以下のように記した。
浅野内匠頭はと答えている。
「幕府に対する恨みは全くない。」
「ただ吉良には私的な遺恨がある。」
「だから己の宿意をもって前後を忘れて吉良を討ち果たそうとした」
一方、外科の第一人者である栗崎道有によって傷口を数針縫いあわせ、軽傷ですんだ吉良上野介は、目付の大久保忠鎮、久留正清らから尋問を受けたが、「拙者は恨みを受ける覚えは無い。
内匠頭の乱心であろう。
またこの老体であるから、何を恨んだかなどいちいち覚えてはいない」と主張した。
将軍徳川綱吉は朝廷との儀式を台無しにされたことに激怒し、浅野内匠頭を即日のうちに切腹、浅野氏の断絶を命じた。
吉良上野介に対しては、殿中をはばかり手向かいしなかったことは殊勝であるとして何の咎めもなかった。

大名が即日切腹というのは異例のことで、目付多門重共も遺恨の内容などについてもっと慎重な取調べが必要だと訴えたが、側用人柳沢吉保に退けられた。
綱吉が切腹を急いだのは、勅使や院使たちに対して自らの天皇への忠誠心をアピールして、母である桂昌院最大の念願である従一位叙任を取り消されないようにするためだったといわれている。

浅野内匠頭は芝愛宕下(現東京都港区 (東京都)新橋 (東京都港区))の田村建顕(陸奥国一関藩)屋敷にお預けとなり、庄田安利(大目付)、多門重共(目付)、大久保忠鎮(目付)らが到着して浅野内匠頭を呼び出したのが六つ過(午後6時過ぎ)、切腹は六つ半(午後7時前後)といわれる。

幕府の処分決定

幕府は翌3月15日 (旧暦)(4月22日)、浅野内匠頭の弟で養子に入っていた浅野長広を閉門処分とした。
また浅野内匠頭の従兄弟にあたる美濃国大垣藩主戸田氏定、大垣新田藩主戸田氏成、武蔵国岡部藩主安部信峯、旗本安部信方、浅野長恒、浅野長武らを遠慮(江戸城登城禁止処分)とした。

播磨国竜野藩主脇坂安照と備中国足守藩主木下公定の両名には赤穂城収城使を命じ、また収城目付に旗本荒木政羽と榊原政殊を任じた。
この役目は当初、日下部博貞の予定だったが、日下部は浅野家の遠縁にあたるので榊原に変更された。
3月18日 (旧暦)(4月25日)には、しばらく天領となる赤穂の統治のために幕府代官石原正氏と岡田俊陳の赤穂派遣が決定した。

赤穂藩への急報

赤穂藩に報が伝わったのは3月19日 (旧暦)(26日)卯の刻(4月27日の日の出前)であった。
江戸からの第一の急使早水満尭と萱野重実が赤穂城内にある筆頭家老大石良雄の屋敷に到着し、浅野内匠頭が吉良上野介に刃傷に及んだという浅野大学からの書状を届けた。
内蔵助はすぐさま赤穂にいる200名ほどの藩士全員に登城命令を出した。
当時、国許にいた赤穂藩浅野家重臣は以下のとおり。

筆頭家老…大石良雄(1500石)
末席家老…大野知房(650石)
番頭…岡林直之(1000石)・、外村源左衛門(400石)、 伊藤五右衛門(430石)、奥野定良(1000石)、玉虫七郎右衛門(400石)
足軽頭…川村伝兵衛(400石)、八島宗右衛門(300石)、進藤俊式(400石)、小山良師(300石)、佐藤伊右衛門(300石)、(江戸から急使として原元辰(300石)、浅野家飛領の加東群から吉田兼亮(200石)もこの後着穂)
持筒頭…藤井彦四郎(250石)、多川九左衛門(400石)
郡奉行兼絵図奉行…潮田又之丞高教(200石)
槍奉行…稲川十郎左衛門(220石余)、萩原兵助(150石)、小林治郎右衛門(150石)
用人…田中清兵衛(300石)、植村与五左衛門(300石)、
大目付…間瀬正明(200石役料10石)、 田中正形 (150石役料10石)
中小姓頭…多儀清具(200石)、大木弥市右衛門(500石)
歩行小姓頭…中沢弥右衛門(300石)、月岡治右衛門(300石)

家中がそろったところで、急報を末席家老大野知房が藩士達に読んで聞かせた。
この大学の書状には吉良の存命については何も書かれておらず、藩士たちは内匠頭が吉良を討ち取ったと思い込んでいたといわれる。
大石良雄は、これだけでは詳細が何も分からないということで、午後1時頃、萩原文左衛門(100石)と荒井安右衛門(15石5人扶持)を江戸へ派遣した。
酉の刻(午後7時頃)、足軽飛脚による第2の急使が赤穂に到着する。
これにも刃傷事件の発生以外は書かれてなかった。
さらに戌の刻(午後11時頃)、原元辰と大石信清による第3の急使が到着して内匠頭切腹の情報が伝えられたが、吉良の生死や赤穂藩の改易については相変わらず何も書かれていなかった。
しかし殿中刃傷を起こした家がどうなるかは予想がついたので、大石は藩札の処理を札座奉行岡島常樹に命じ、早くも翌3月20日 (旧暦)(4月27日)には領内数箇所に藩札交換所を設けて六分率で交換させ、赤穂経済の混乱の回避に努めた。

3月22日 (旧暦)(4月29日)には町飛脚の第4報が到着し、浅野長広お預かりの情報が伝えられた。
続く3月25日 (旧暦)(5月2日)には町飛脚の第5報が到着し、これには江戸の浅野家上下屋敷が召し上げられたことが書かれていた。
この段階でも吉良の生死の情報はなく、いよいよ吉良の死を疑いだした内蔵助は、吉良の生死を確かめるために藩大目付の田中正形を江戸へ、番頭の伊藤五右衛門を三好藩へそれぞれ派遣した。
またこの日広島藩士太田七郎右衛門正友が赤穂に到着しており、翌3月26日 (旧暦)(5月3日)にも大石内蔵助の叔父にあたる広島藩士小山良速が赤穂入りしてくる。
いずれも穏便に開城をという広島藩の圧力であった。

開城か篭城か

開城か篭城かの決断を迫られた大石は、家中の意見を統一するために3月27日 (旧暦)(5月4日)から3日間にわたって城内広間において大会議を開催した。
この会議では篭城を主張する抗戦派と、開城して御家再興を嘆願すべきとする恭順派に意見が分かれて対立した。
抗戦派の中心は足軽頭原元辰と札座奉行岡島常樹の兄弟であり、恭順派は末席家老の大野知房が中心となっていた。
この会議中の28日に第6の急使が到着し、赤穂城の収城目付が荒木政羽と榊原政殊、赤穂代官が石原正氏と岡田俊陳になった旨が告げられた。
これは篭城抗戦派をより刺激し、開城派大野の孤立が深まっていった。

この頃、大石内蔵助も吉良の生存の情報を得た。
内蔵助は3月29日 (旧暦)(5月6日)に収城目付荒木政羽と榊原政殊に対して以下の嘆願書を提出しようと多川九左衛門と月岡治右衛門を江戸に派遣している。
「赤穂家臣は武骨な者ばかりにて、ただ主君一人を思い、赤穂を離れようとはしません。」
「吉良上野介様への仕置きを求めるわけではありませんが、家中が納得できる筋道をお立てください」
しかしこの多川と月岡の両名は、荒木、榊原と小田原あたりで行き違いになり、江戸に到着後、「目付に直接手渡すように」という内蔵助の命令に背いて江戸家老安井彦右衛門に報告してしまい、安井の報告を受けた大垣藩主の戸田氏定の「穏便に開城するように」という書状を持って帰ってくるだけに終わっている。

親族の大名家からは連日のように穏便に開城をという使者が派遣された。
3月28日 (旧暦)(5月5日)には大垣藩主の戸田氏定家臣の戸田源五左衛門、植村七郎左衛門、29日(6日)には広島藩主浅野綱長家臣の太田七郎左衛門正友、4月1日 (旧暦)(5月8日)には広島藩三次藩主浅野長澄家臣の内田孫右衛門、4月6日 (旧暦)(5月13日)には戸田家家臣の戸田権左衛門、杉村十太夫、里見孫太夫、4月8日 (旧暦)(5月15日)には戸田家家臣の大橋伝内、4月9日 (旧暦)(5月16日)には広島浅野家家臣、井上団右衛門、丹羽源兵衛、西川文右衛門、4月11日 (旧暦)(5月18日)には戸田家の高屋利左衛門、村岡勘助、広島浅野家の内藤伝左衛門、梅野金七郎、八木野右衛門、長束平内、野村清右衛門、末田定右衛門、4月12日 (旧暦)(5月19日)には戸田家の正木笹兵衛、荒渡平右衛門、三次浅野家の永沢八郎兵衛、築山新八が赤穂を訪れた。

こうした中で大野と原兄弟の対立はますます激化した。
藩金分配についても原兄弟が下級藩士に厚い累減率の配分を主張したのに対し、大野が禄高順の分配を主張したので紛糾した。
筆頭家老の大石が原兄弟の意見に賛同したため、最終的には下級藩士に厚い配分をすることに決まった。
しかも配分に当たって大石自らは分配金受け取りを辞退したので、藩士たちの支持を集めた。

一方で孤立の深まる大野は4月12日夜、子息の大野群右衛門とともに赤穂から逐電する。
赤穂藩改易騒ぎのどさくさで岡島常樹の部下の小役人たちが金銀を盗んで逃げだした事件を捉えて、大野が「岡島も一味に違いない」と吹聴し、岡島が激高したのが直接の原因だったともいわれる。

大野が赤穂から去ったことで赤穂藩の命運は大石良雄が一手に握ることとなった。
大石は、内心では開城してのお家再興派だったが、これを主張すれば収まりがつかないと考え、最初は篭城を主張して原惣右衛門ら篭城派の支持を獲得した。
次いで藩士一同の殉死を主張、最後には吉良への仇討ちを前提とした開城へと誘導し、浅野家中は開城に意見がまとまる。

大石内蔵助は切腹に同調した藩士80人~60人(神文血判を提出した人数は文献によって異なる)それぞれから誓紙血判を提出させて義盟を結ぶが、番頭は奥野定良を除き血判を提出していない。
足軽頭は八島宗右衛門を除いて全員が血判を提出した。

赤穂城開城

赤穂城は開城されることとなり、内蔵助らは4月15日 (旧暦)(5月22日)に到着した収城目付荒木政羽と榊原政殊を迎えた。
内蔵助はこのふたりと会見し、「病になった」という大野知房に代わって組頭奥野定良を家老代理にすることの許可を得る。
4月17日 (旧暦)(5月22日)には代官の石原正氏と岡田俊陳も赤穂に到着し、4月18日 (旧暦)(5月25日)にはこの4人による赤穂城検分が行なわれたが、この際に内蔵助は3回にわたって浅野内匠頭の弟浅野長広をもっての浅野家再興の取り成しを嘆願した。
3回目の嘆願でようやく荒木政羽が浅野家再興を老中に取り次ぐことを約束したと『江赤見聞記』に記されている。
同日、収城使脇坂安照率いる4,500余りの竜野藩兵が赤穂に到着し、翌4月19日 (旧暦)(5月26日)に内蔵助は赤穂城を無血開城した。
明渡しに際しての内蔵助の対応は、実に見事なものであったといわれる。

赤穂城開城後、大石内蔵助や吉田忠左衛門ら藩士の一部は遠林寺に入って、5月21日 (旧暦)(6月26日)まで藩政残務処理に追われた。
この間の5月5日 (旧暦)(6月10日)には早水藤左衛門と近松勘六の二名を高野山に登らせて、奥の院御廟橋の近くに浅野長矩の墓を建立させている。

残務処理が終わった後も内蔵助は腕にできた腫れ物の療養のため赤穂に滞在している。
この間も御家再興運動を積極的に行っており、原元辰らを大坂へ派遣して広島藩浅野家の家老、戸島保左衛門と会見させたり、遠林寺の住職祐海を江戸に遣わして将軍徳川綱吉やその生母桂昌院に影響力が大きい隆光大僧正らに会見させるなどした。
また先に浅野家再興の嘆願を取りなして欲しいと依頼した荒木政羽も、江戸に戻ってから老中や若年寄に取り成しを行ってくれた。
荒木は6月9日 (旧暦)(7月14日)に赤穂浅野家分家筋の旗本浅野長恒の屋敷を訪れて、「浅野家再興の見込みあり」の旨を内蔵助に伝えて欲しいと伝言している。

6月12日 (旧暦)(7月17日)、腫れ物がおさまった内蔵助は生まれ故郷の赤穂を後にすることとなる。

刃傷直後の江戸藩邸の動き

刃傷事件のあった元禄14年(1701年)3月14日 (旧暦)(4月21日)に江戸にいた赤穂藩重臣は次のとおり。

藩主世子…浅野長広(3000石)
江戸家老…安井彦右衛門(650石江戸扶持9人半)
藩主供奉家老…藤井宗茂(800石)
足軽頭…原元辰(300石)(ただしすぐに赤穂へ立つ)
用人…奥村忠右衛門(300石)、糟谷秀信(250石)
大目付…早川宗助(200石役料10石)
江戸留守居…建部喜六(250石)・近藤政右衛門(250石)
側用人…片岡高房(350石)、礒貝正久(150石)、田中貞四郎(150石)

浅野内匠頭の弟であり、兄の養子に入っていた浅野長広は刃傷発生を知ると即刻伝奏屋敷(現在の東京都千代田区丸の内1-4日本工業倶楽部)から鉄砲州の上屋敷(現在の東京都中央区 (東京都)明石町 (東京都中央区)聖路加国際病院)に駆けつけたが、浅野内匠頭の正室の阿久里(後の瑤泉院)から上野介の生死について問われても答えられないほど狼狽していたといわれる。
浅野内匠頭の母方の従兄弟に当たる美濃国大垣藩主戸田氏定も自ら鉄砲州上屋敷へ駆けつけてきた。
さらに幕府からも目付の近藤重興と天野富重が上屋敷に送られてきて、浅野大学や家老藤井宗茂に屋敷内の騒ぎを取り沈めるよう命じている。

戸田氏定は上屋敷を出た後、その足で伝奏屋敷に入り、浅野家の家財を運び出すなど撤収を指揮した。
この撤収に当たっては原元辰が迅速に行うなど働きがあり、幕府目付を感服させたという。

未の刻(午後2時頃)、浅野大学長広は書状を国家老大石内蔵助にしたためて、早水藤左衛門と萱野三平を第1の急使として赤穂へ派遣した。

また申の下刻(午後5時頃)には一関藩田村家より浅野内匠頭の遺体を引き渡したいから家臣を送るようにという使者が浅野長広に伝えられた。
これを受けて片岡源五右衛門、礒貝十郎左衛門、田中貞四郎、中村清右衛門、糟谷勘左衛門、建部喜六らが田村邸へ入り、内匠頭の遺体を引き取った。
彼らはそのまま泉岳寺へ向かい、同寺で内匠頭の葬儀を執り行ったが、大名の葬儀とは思えぬ淋しいものだったといわれている。
この後、片岡源五右衛門や礒貝十郎左衛門らは、浅野内匠頭の墓前で髻を切って吉良上野介の首級をあげることを泉下の主君に誓った。

亥の下刻(後午11時頃)頃、上屋敷において瑤泉院が落髪。
さらに3月15日 (旧暦)(4月22日)に入った深夜頃から略奪を目的に町人が大勢群集して浅野家の鉄砲洲上屋敷裏口に乱入するようになる。
大垣藩戸田家から送られてきていた警備兵たちや堀部武庸らが刀を持って追い払い、さらに翌朝には本家の浅野綱長にも警備の兵が依頼されて、小堀新五右衛門(大番物頭)が指揮する広島藩兵(足軽50名・小人30名)が到着し、上屋敷は治安を取り戻した。

この騒ぎの最中の阿久里が実家である広島藩三次藩の前藩主浅野長照(藩主浅野長澄は国許三次にいた)が阿久里を引き取るべく、幕府の許可を得たうえで大橋忠兵衛孝次(同藩先手頭)木村吉左衛門定重(同藩持筒頭)らを上屋敷に派遣してきた。
阿久里はこの者たちに警護されて三次藩の赤坂今井邸(現東京都港区 (東京都)赤坂 (東京都港区)氷川神社 (東京都港区赤坂))へと移っていった。
3月15日 (旧暦)(4月22日)にはいった丑の刻(午前2時頃)頃のことといわれる。

3月16日 (旧暦)(4月23日)中に家財の積み出し作業も終わって赤穂藩士は全員鉄砲州の上屋敷から引き払い、申の刻(午後4時頃)には広島藩兵たちも引き上げて、戸田氏定がひとまずの管理者となったが、3月17日 (旧暦)(4月24日)には同屋敷は新しい主となった出羽国新庄藩主戸沢正誠に引き渡され、さらに3月22日 (旧暦)(4月27日)には小浜藩主酒井忠囿の屋敷となった。

赤坂南部坂(現東京都港区 (東京都)六本木)にあった下屋敷のほうも3月18日 (旧暦)(4月25日)には藤井又左衛門・富森助右衛門から人吉藩主相良長在へ引き渡された。
また本所屋敷は当初鉄砲州上屋敷から運び出した品を収納していたが、それも随時運び出して、3月22日 (旧暦)(4月27日)には安井彦右衛門から加藤泰恒(伊予国 大洲藩主)に引き渡された。

江戸急進派

江戸詰めの藩士たちは安井彦右衛門や藤井宗茂など赤穂藩から逃亡した者を除いて、多くが吉良義央を主君に代わって討つべしと主張するようになった。
特に剣豪として江戸で名を馳せていた堀部武庸(馬廻役200石)、高田吉次の子孫であり槍の達人の高田郡兵衛(馬廻役200石)、堀部の剣の同門である奥田孫太夫 (武具奉行馬廻役150石)などが強硬に吉良上野介の首級をあげるべきと主張した。
片岡源五右衛門、礒貝十郎左衛門、田中貞四郎ら浅野内匠頭の寵愛を受けた側近達も同様に仇討ちを主張した。
しかし、腕を天下に披露したい武芸者の堀部らは吉良邸への討ち入りを主張したのに対し、主君への報恩第一の寵臣片岡らは行列襲撃してでも即時の吉良殺害を主張した。
この意見の食い違いによって、ついには片岡らは江戸を飛び出して、3月27日 (旧暦)(5月4日)に赤穂へ入って同志を募ろうとしたが、この頃、赤穂城では大石内蔵助のもと殉死切腹が主流であったため、片岡らの吉良を討つという主張は受け入れられず、赤穂も去っていった。
以降は江戸へ戻って三人だけで独自に吉良上野介の首を狙うようになる。

赤穂城開城直前の4月14日 (旧暦)(5月21日)には堀部安兵衛、高田郡兵衛、奥田孫太夫たちも赤穂へ入った。
ただちに内蔵助はじめ重臣達に会見を申し込んで吉良上野介への仇討ちを主張したが、大石らからは以下のように諭された。
「上野介へ仇討ちはするが、まず大学様のお家再興をしなければならない。時期を見よ」
赤穂開城を見届けたのち、5月12日 (旧暦)(6月17日)には江戸へ帰っていった。
しかし江戸へ帰った後も堀部達は吉良への仇討ち計画を進め、内蔵助に江戸下向を迫り続ける。

こうしたお家再興よりも吉良家への仇討ちを優先しようとする勢力は、江戸詰めの藩士たちに多かったため、彼らは江戸急進派と呼ばれた。

御家再興優先派と江戸急進派の軋轢

赤穂を離れた後の7月、内蔵助は山城国山科区に隠棲する。
ここは公家であり、大石と遠縁にあたる摂関近衛家の領地で、内蔵助親戚の同志進藤俊式の一族進藤長之(近衛家諸大夫)がこの土地を管理していた。

山科に居を移した直後の内蔵助は、吉良家への仇討ちより浅野家お家再興を優先した。
小野寺秀和とともに美濃国大垣城へ赴いて戸田氏定に拝謁して浅野家再興を嘆願。
また江戸で浅野家再興運動中の遠林寺住職祐海とも書状で連絡を取り合った。

この大石の動きに苛立つ堀部ら江戸急進派は、6月頃から内蔵助江戸下向を迫る書状を送りつけてくるようになったが、大石はひたすら大学のため隠忍自重するよう求める返書を書き続け、江戸下向を避けた。
苛立つ堀部らは、とうとう8月19日付けの書状で「大学様も兄親の切腹を見ながらでは、100万石が下されても人前に立てないだろう」と述べるようになり、大石は江戸急進派鎮撫に使者の派遣の必要性を感じるようになったといわれる。

9月下旬、内蔵助は原惣右衛門(300石足軽頭)、潮田又之丞(200石絵図奉行)、中村勘助(100石祐筆)らを江戸へ派遣、続いて進藤源四郎(400石足軽頭)と大高源五(20石5人扶持腰物方)も江戸に派遣した。
しかし彼らは逆に堀部安兵衛に論破されて急進派になってしまったため、元禄14年(1701年)10月20日 (旧暦)(11月19日)大石内蔵助が自身で江戸へ下向する。
これは大石第一次東下りとも呼ばれる。

江戸三田(東京都港区 (東京都)三田駅 (東京都))の前川忠大夫宅で堀部と会談し、浅野内匠頭の一周忌になる明年3月に決行を約束した。
またこの際、かつて赤穂藩を追われた不破数右衛門が一党に加えてほしいと参じたため、大石は内匠頭の眠る泉岳寺へ参詣した際に主君の墓前で不破に浅野家への帰参と同志へ加えることの許可を与えた。
この江戸下向の際に荒木政羽や内匠頭正室の瑤泉院とも会見している。
江戸で一通りすべきことを終えた大石は、12月には京都へ戻った。
帰京後から大石内蔵助の伏見撞木町(京都府京都市伏見区撞木町)などでの放蕩が激しくなったといわれる。

内蔵助の放蕩三昧については、落合勝信の著作といわれる「江赤見聞記」にあるが、真相は不明。
堀部筆記のなかに内蔵助の放蕩について触れたものは確認されていないため、少なくとも江戸方の同志の耳には入っていなかったのではないかとして、放蕩を疑う説もある。
「江赤見聞記」は吉良家の遠縁にあたる伏見奉行建部政宇の目をくらますためとしている。

進藤源四郎と小山源五左衛門は、内蔵助の側にお軽という妾をおいているが、これは江戸急進派がこれ以上激昂しないように内蔵助の放蕩をおさえようとしたのだという。
この女性がのちに「仮名手本忠臣蔵」の登場人物「おかる」に転じることになる。

吉良家屋敷替え

大石が御家再興運動や堀部らとの論争をしている頃、江戸幕府では吉良家に対して厳しい処分を下し始めていた。
まず元禄14年8月19日 (旧暦)(1701年9月21日)に吉良家の屋敷が江戸城のお膝元呉服橋から当時江戸の外れといわれていた本所(現東京都墨田区両国 (墨田区))の松平信望の上ゲ屋敷に屋敷代えとなり、さらにその直後の8月21日 (旧暦)(8月23日)には、庄田下総守(浅野を庭先で切腹させた大目付)、大友義孝(吉良義央と親しくしていた高家仲間)、東条冬重(吉良義央の実弟)の三名を同時に呼び出して「勤めがよくない」などと咎めて役職を取り上げた。

この状況に吉良も高家肝入職への復帰を絶望視し、12月12日 (旧暦)(1702年1月9日)には家督を養子吉良義周に譲って隠居してしまった。
またさらに吉良上野介には実子として出羽国 米沢藩主上杉綱憲(15万石)がいたので、吉良が米沢城に移るという噂もたった。
奥方梅嶺院も屋敷替えになった際に上杉家の実家に帰っていた。
富子が新しい屋敷に同道せず上杉家へ戻った理由は諸説あり定かではない。
離婚説、「浅野が腹を切ったのだから貴方も切ったらどうです」といったせいで不仲になった説、討ち入りを案じて吉良が帰した説、新しい屋敷がせまくて女中を連れていけなかった説などがある。

円山会議

年末からは脱盟者も出始め、同志の1人萱野三平は父の萱野七郎左衛門と浅野家への忠孝の間で苦悩して自害、橋本平左衛門も遊女はつと恋仲となり、忠義を捨てて彼女と心中してしまった。
また江戸急進派の中心人物高田郡兵衛も旗本内田元知との養子縁組騒動を機に脱盟した。
高田の脱盟は江戸急進派の顔を失わせる結果となり、その発言力を弱めさせた。
内蔵助はこれを好機として元禄15年(1702年)2月15日 (旧暦)(3月13日)の山科と円山での会議において「大学様の処分が決まるまで決起しない」ことを決定する。

3月5日 (旧暦)(4月1日)、吉田忠左衛門(200石加東郡郡代)と近松勘六(馬廻250石)がこの決定を江戸の同志達に伝えるべく下向した。
吉田はまず江戸で孤立していた片岡源五右衛門ら内匠頭近臣組と面会すると説得して大石の盟約に加わらせている。
そして3月8日 (旧暦)(4月4日)に江戸急進派のリーダー格の堀部安兵衛と両国米沢町(現東京都中央区 (東京都)東日本橋)で会談に及んだ。
しかし案の上安兵衛ら江戸急進派は決定に納得せず、内蔵助をはずして代わりに原惣右衛門を大将にして独自に決起することを模索しつつ、6月には内蔵助との最後の調整のため堀部安兵衛が自ら京都へ乗り込んでくることとなった。
安兵衛は「もはや大石は不要」として内蔵助を斬り捨てるつもりだったとも言われる。
しかしちょうどこの頃、遠林寺の祐海などを通じて内蔵助もお家再興が難しい情勢を知ったといわれる。
また7月18日 (旧暦)(8月11日)には、実際に幕府が浅野大学長広に広島藩への永預かりを言い渡したことで、お家再興の望みは完全に絶たれる。
内蔵助も以降は討ち入り一本と決め、安兵衛ら江戸急進派との対立はここに解消された。

7月28日 (旧暦)(8月21日)、内蔵助は、堀部安兵衛も招いて京都円山で同志との会議を開き、本所吉良屋敷への討ち入りを決定した。

神文返し

堀部安兵衛は早速これを江戸急進派の同志達に伝えるべく江戸へ戻っていった。
また大石内蔵助はお家再興だけを目当てに盟約を参加していた者がいるであろうことを鑑みて、大高源五と貝賀弥左衛門に同志を訪ねさせて義盟への誓紙を一度返却させ、盟約から抜ける機会を与えた。
大高源五たちは誓紙の返還を拒んだ者だけに仇討ちの真意を伝えた。
この行為は「神文返し」と呼ばれた。

この頃には江戸の同志や遅れて出した同志も足して130人を超えていたが、神文返しによってその数は60人以下になったといわれている。

重臣のなかで脱盟したのは、奥野定良(組頭1000石)、進藤俊式(足軽頭400石)、小山良師(足軽頭300石)、河村伝兵衛(足軽頭400石)、佐々小左衛門(足軽頭200石)、多川九左衛門(持筒頭・足軽頭400石)、月岡治右衛門(歩行小姓頭300石)、岡本重之(大阪留守居400石)、糟谷秀信(用人250石)など。

なかでも奥野将監は大石内蔵助をのぞけば浅野家中で最上の1000石取りの重臣で、また進藤源四郎と小山源五左衛門は、大石内蔵助の叔父にあたる者だった。
御家再興運動では大石の参謀として働いた者たちだった。
ある程度の脱盟は予想していた内蔵助もさすがにこの三人の脱盟は予想できず、その脱盟を非常に惜しんだという。

この時点で同盟に残った上方の同志たちは、残される家族の処置をしてから続々と江戸へ向かっていった。

この家族の処置にあたって特に苦難したといわれるのは若年の同志矢頭右衛門七で、赤穂退去後、矢頭家は大阪に移住していたが、ここで父矢頭長助が病死してしまう。
右衛門七は、母妹達をつれて母の実家がある陸奥国白河藩へ向かったが、荒井関所を女人手形不携行のため、通してもらえなかった。
結局右衛門七は大阪の知人に母たちを預けて江戸へ下向している。

内蔵助は、盟約に加わることを望んだ嫡男大石良金だけを自分のもとに残して、妻香林院や子供らは絶縁の上、豊岡の石束毎公のところへ帰している。
特に連座が予想される次男の大石吉千代は仏門に入れている。
そして9月19日 (旧暦)(11月8日)、まず嫡男の大石主税を江戸へ下向させた。
続いて10月7日 (旧暦)(11月25日)には内蔵助自身も江戸へ出立する(第二次大石東下り)。
第一次とは違い、今度こそ吉良を討つための下向であった。

討ち入りまで

道中の富士で内蔵助は曾我兄弟の仇討ちの墓を詣でたという。
ドラマ等では、「日野家用人垣見五郎兵衛」と変名していた大石が、道中本物の垣見五郎兵衛と出会うといった演出がなされたものもある。

10月23日 (旧暦)(12月11日)には鎌倉へ到着。
ここで吉田忠左衛門らが大石を出迎えた。
さらに忠左衛門らが用意しておいた川崎平間駅の軽部五兵衛宅の離れに滞在する。
内蔵助はここから同志たちに今後の綱領「訓令十カ条」を発した。

11月5日 (旧暦)(12月23日)に内蔵助の一行は江戸へ入る。
江戸では日本橋石町三丁目(現東京都中央区 (東京都)日本橋本町)の宿屋小山屋店に滞在。
公事訴訟のために滞在する垣見左内(大石主税)の後見人垣見五郎兵衛と名乗った。
内蔵助や主税のほかには潮田又之丞、小野寺十内、近松勘六、大石瀬左衛門、早水藤左衛門、菅谷半之丞、三村次郎左衛門、内蔵助若党二人(加瀬村幸七、室井左六)、近松勘六の下男一人、計12名がここに滞在した。

他にも麹町、本所、両国、築地、芝、南八丁堀湊町、深川黒江町などに借宅や店を借りて同志たちが滞在した。

大石内蔵助は本所吉良屋敷を同志に探らせ、吉良邸絵図面を入手した。
この絵図面入手経路について岡野金右衛門とお艶の逸話(後述)が生まれたが、寺坂の私記には「内縁をもって入手した」としている。
この「内縁」とは、堀部弥兵衛の後妻の実家忠見氏は吉良邸の隣人である本多長員(幕府から派遣される越前松平家家老(監視役))の家臣であることから忠見氏ともいわれている。
また大石瀬左衛門の母方の叔父太田加兵衛が吉良家屋敷の前主松平信望の家臣であることから、こちらとする説もある。

吉良上野介在邸確実の日を探る必要もあったため、しばしば吉良邸に招かれて、『源氏物語』や『伊勢物語』を進講したり、歌の指導をしていた国学者荷田春満が、大石の友人であったので春満を通じて吉良邸茶会が12月14日にあるという情報を入手。
さらに春満の推挙をもらって大高源五(脇屋新兵衛)を茶人山田宗偏に弟子入りさせる。
宗偏は本所に茶室を構えていたので吉良上野介から吉良家の茶会にしばしば招かれていた。
そしてその宗偏からも吉良家の茶会が12月14日にあることを聞き出した。
内蔵助は確かな情報と判断し、この日12月14日 (旧暦)(1703年1月30日)を討ち入りの日と決定した。

11月29日 (旧暦)(1703年1月16日)、大石内蔵助は、赤坂今井の三次藩下屋敷にいる浅野長矩正室瑤泉院の用人落合勝信宛で赤穂藩藩金の使用明細書とその傍証資料を送っている。
このことと第一次大石東下りの際に大石が瑤泉院に拝謁したことがヒントとなって討ち入り直前に大石が瑤泉院に拝謁し、今生の別れをするという「南部坂雪の別れ」の逸話(後述)が生まれたといわれる。

12月2日、頼母子講を装って全同志が深川八幡茶屋に集まった。
このときに討ち入り時の綱領「人々心覚」が定められ、その中で武器、装束、所持品、合言葉、吉良の首の処置など事細かに定め、さらに「吉良の首を取った者も庭の見張りの者も亡君の御奉公では同一。よって自分の役割に異議を唱えない」ことを定めた。

江戸潜伏中にも同志の脱盟があり、田中貞四郎(側用人150石。酒乱をおこして脱盟。)、小山田庄左衛門(100石。片岡源五右衛門から金を盗んで逃亡)、中村清右衛門(側用人100石。理由不明)鈴田十八(理由不明)、中田理平次(30石4李施。理由不明)、毛利小平太(大納戸役20石5人扶持。理由不明)、瀬尾孫左衛門(大石家家臣。理由不明)、矢野伊助(足軽5石2人扶持。理由不明)の8名が姿を消した。

最後まで残った同志の数は47人。

討ち入り

14日(30日)夜。
『人々心得之覚書』によれば、47人の赤穂浪士は九つ(午後24時ごろ)の鐘によって行動を開始し、江戸市中3か所に集合して、本所 (墨田区)吉良屋敷(現在の本所松坂町公園)へと向かった。
実際に襲撃したのは現在の時刻で翌12月15日 (旧暦)(1月31日)に入っての未明午前4時頃であったが、江戸時代の慣習では日の出の明け六つ鐘(1月31日では6時45分頃)を1日の区切りとしたので、当時の日付としては「14日の斬り込み」となる。
この時に雪が降っていたというのは『仮名手本忠臣蔵』での脚色であり、実際は冷え込みが厳しかったが満月のほぼ快晴だったといわれている。

表門隊

表門隊の大将は大石内蔵助。
その下に23士が属した。
そのうち片岡高房(槍)、富森正因(槍)、武林隆重(槍)、奥田重盛(太刀)、矢田助武(槍)、勝田武堯(槍)、吉田兼貞、岡島常樹、小野寺秀富の9士で吉良邸内へ突入している。

庭の見張りについたものは早水満堯(弓)、神崎則休(弓)、矢頭教兼(槍)、大高忠雄(太刀)、近松行重、間光興(槍)の6士。

新門の見張りについた者は、堀部金丸(槍)、村松秀直(槍)、岡野包秀(槍)、横川宗利(槍)、貝賀友信の5士。

そして表門には大石内蔵助(槍)、原元辰(槍)、間瀬正明(半弓)という参謀格の3士が陣取り、表門隊の指揮をとった。

裏門隊

裏門隊の大将は大石内蔵助の嫡男大石主税。
実質的な指揮者は吉田忠左衛門。
その下に24士が属した。
そのうち堀部武庸(太刀)、礒貝正久(槍)、倉橋武幸、杉野次房、赤埴重賢、三村包常、菅谷政利、大石信清(槍)、村松高直(槍)、寺坂信行の10士が吉良邸内へと突入した。

庭内の見張りは大石良金(槍)、潮田高教、中村正辰(槍)、奥田行高(太刀)、間瀬正辰(槍)、千馬光忠(半弓)、茅野常成(弓)、間光風(弓)、木村貞行(槍)、不破正種(槍)、前原宗房(槍)の11士。

裏門には吉田兼亮(槍)、小野寺秀和(槍)、間光延(槍)が陣取り、裏門隊の指揮をとった。

吉良方

吉良家臣の数は諸説あってはっきりとしていないが、討ち入り後の幕府の検死役の書に「中間小物共八十九人」と書かれている。
桑名藩所伝覚書では「上杉弾正(上杉綱憲)から吉良佐平(吉良義周)様へ御付人の儀侍分の者四十人程。雑兵百八十人程参り居り申し候よし」と記してある。
上杉家からかなりの数の士分と非士分が吉良義周(上杉綱憲の二男。吉良義央の養子)にしたがって吉良家へ入ったとしている。
姓名などが判明しているのは以下の通り。

筆頭家老…斎藤宮内(150石)
家老…・左右田孫兵衛(100石)・松原多仲(100石)。

取次月番…須藤与一右衛門(50石)・岩瀬舎人(50石)
取次…平沢助太夫(15両4人扶持)斎藤十郎兵衛(15両3人扶持)清水団右衛門(5両5人扶持)
目付…糟谷平馬(8両3人扶持)・新貝伝蔵(6両)
近習…山吉盛侍(30石5人扶持)・永松九郎兵衛(7両3人扶持)・新貝安村(6両)・天野貞之進(6両)・鈴木浅右衛門(5両)・高橋治右衛門(10両)
中小姓…左右田源八郎(7両)・斎藤清右衛門(6両)・笠原長太郎(5両)・伊藤喜左衛門(4両)・鈴木杢右衛門(4両)・岩瀬喜大夫(7両)・宮石島之助(5両)
祐筆…堀江勘左衛門(7両)・鈴木元右衛門(6両)
台所役…岩田弥一兵衛(5両)

隠居付家老…小林平八郎(150石)
隠居付用人…鳥居正次(50石)・宮石新兵衛(50石)
隠居付近習…清水一学(7両3人扶持)・大須賀治郎右衛門(6両)・榊原平右衛門(6両)・加藤太左衛門(6両)
隠居付台所役…三田八右衛門(5両)

役職石高などが不明な者では、小笠原忠五郎、村上甚五右衛門、古沢善右衛門、馬場次郎右衛門、石原弥右衛門、富田五左衛門、星八左衛門、若松新右衛門、近藤徳兵衛、山下甚右衛門、榊原五郎右衛門といった名前が挙げられている。
非士分の者たちとして厩別当の杉山与五右衛門、茶坊主の鈴木松竹、牧野春斎、足軽の大河内六郎右衛門、森半右衛門、権十郎、仲間八大夫、兵右衛門、若右衛門などの名が伝わる。
創作では討ち入り時に吉良家の女中が逃げ惑う演出なども行われるが、実際には夫人の富子がすでに吉良家におらず、それに仕える女中も屋敷内にはいなかった。

討ち入りの様子

元禄16年1月24日に礒貝十郎左衛門と富森助右衛門が連署で書いた『礒貝富森両人覚書』によると、表門は梯子をかけて登り、裏門は門を打ち破ったとしている。
赤穂浪士のお預かりを担当した松平定直の家臣波賀清大夫が赤穂浪士たちから話を聞き、それをもとにして書いた『波賀聞書』では、表門隊で最初に梯子を上って邸内に侵入したのは大高源五と小野寺幸右衛門であったといい、大高が飛び降りざま名乗りを上げ、吉田沢右衛門と岡島八十右衛門もそのあとに続いて上っていったとしている。
原惣右衛門は飛び降りた際に足をくじき、また神崎与五郎も雪で滑り落ちたが、大事はなく働きにも影響はなかったという。
堀部弥兵衛は高齢であるため大高源五が抱いて下ろしたとしている。
一方裏門の様子を示した『波賀聞書』では、杉野十平次と三村次郎左衛門が門を破り、一番に突入したのは横川勘平、番人を倒したのは千馬三郎兵衛の半弓であったとしている。
寺坂吉右衛門の書いた『寺坂私記』によると原惣右衛門が書いた浅野内匠頭家来口上書を上包して箱に入れ、青竹に挟んで吉良邸の玄関前に立て置いたという。

『小野寺書状』によると、表門隊は玄関に差し掛かり、玄関の戸を蹴破ったとしている。
飛び起きて広間からかけつけてきた番人三人と戦っている間、小野寺幸右衛門が立て並べてある弓を発見、幸右衛門は吉良家臣一人を斬り倒したあと、すぐにそれらの弓の方へ向かって弦を切って使い物にならないようにしたという。
ドラマなどではこれは幸右衛門のその場の機転のようになっているが、『小野寺書状』によると吉良家臣は弓の使い手が多いという情報を事前につかんでいたので弓は発見次第に弦を切るよう事前に決めていたとしている。

『波賀聞書』によると、庭の見張り組は「五十人組は東へ回れ」「三十人組は西へ回れ」などと声高に叫ぶことであたかも百人以上の大勢が討ち入ったかに装ったとしており、これが功を奏し、長屋にいた吉良家臣たちは本当にその人数がいると信じ込み、ほとんどの者が恐怖で長屋から出てこなかったという。
『礒貝富森両人覚書』も、邸内ではたびたび戦闘が起きたが、長屋の侍は出てこなかったとしている。
しかし『小野寺書状』によると長屋から飛び出してきた吉良家臣二人がおり、先に出てきた男を小野寺十内が槍で倒し、もう一人は間喜兵衛の槍で倒したという。

『赤城士話』によると間瀬孫九郎に遮二無二斬りかかる吉良家臣がおり、孫九郎はその男の脇腹に槍を突き刺したが、その吉良家臣は槍を手繰り寄せようと槍を二打ち三打ちしてきた。
孫九郎が槍を投げだすと男は倒れて息絶えたという。

大石内蔵助が十二月十九日に寺井玄渓(浅野内匠頭の藩医だった人物)に送った書状によると、一番の働きをしたのは不破数右衛門であったという。
四、五人の敵と戦い、その刀がささらのようになっていたという。
不破数右衛門が父佐倉新助にあてた書状では本当は不破は庭の見張り担当であったが、こらえ難くて独断で邸内へ突入してしまい、邸内では長刀を振るう当主吉良義周と遭遇し、戦闘になった。
義周は負傷すると逃げ出したという。
義周本人は自分は負傷して気絶したと証言している。

『江赤見聞記』は、吉良方に強者が広間に六人、台所に一人いたとしており、吉良家臣の清水一学は台所で討ち死にしている。

富森助右衛門の証言によると礒貝十郎左衛門が軽い者を捕えてろうそくを出させ、真っ暗だった吉良邸内を明るくしたという。
後に取り調べの時にこれを聞いた大目付仙石久尚も礒貝の機転の良さに感心したという。

新井白石が吉良邸の隣人の旗本土屋主税から聞き取った話を室鳩巣が書き綴った『鳩巣小説』では、隣の吉良邸が騒がしくなったので外へ出て見た土屋が壁越しに声をかけたところ、片岡源五右衛門、原惣右衛門、小野寺十内と名乗った者が、吉良上野介を打ち取って本望を達したと言う声を聞いたとしている。
これを聞いた土屋は壁際に灯りを掲げてその下に射手をおき、「堀を越えてくる者は誰であろうとも射て落とせ」と命じたという。

『礒貝富森両人覚書』によると、吉田忠左衛門や間十次郎らが、台所横の炭小屋からヒソヒソ声がするのを聞いたため、中へ入ろうとすると、中から皿鉢や炭などが投げつけられた。
さらに二人の吉良家臣たちが中から斬りかかってきたのでこの二人を切り伏せたあと、尚奥で動くものがあったため、まず間十次郎に槍で突いた。
出てきたのは老人で脇差で抵抗しようとするも武林唯七に一刀のもと斬り捨てられた。
老人であり、白小袖を着ていることからこの死体をよく調べてみると面と背中に傷があったので吉良に間違いないと判断し、一番槍の十次郎が首を落とした。
そして合図の笛を吹き後、玄関前に集合した赤穂浪士たちは表門番人の三人に吉良の首を見せて間違いなく上野介であることを確認した。
『鳩巣小説』によると声だけしか聞こえない土屋邸では赤穂浪士たちが吉良を探している間の声を聞いて取り逃がしたのだろうと思っていた。
しかし突然「有り様に申さぬか」という大声が聞こえてきたという。
他の者が「額の傷を見よ」という声も聞こえきた。
その後しばらくしてわっと泣き出す声が聞こえた。
これを聞いて土屋は今まさに吉良の首をあげて悦びの泣き声をあげているのだろうと思ったという。

吉良上野介の首は潮田又之丞の持つ槍の先に掲げられた。
邸内の火の始末をしたあと、吉良邸を出て、辰の刻(午前8時ごろ)浅野内匠頭の墓がある泉岳寺に着き、墓前に吉良上野介の首級を供え、仇討ちを報告した。
この際に足軽の寺坂吉右衛門が立ち退いており、赤穂浪士は46人となっていた。

山鹿流陣太鼓と装束

山鹿素行が赤穂に配流になった縁で藩主が山鹿素行に師事し、赤穂藩は山鹿流兵法を採用していた。

映画やテレビドラマ、演劇では、雪の降りしきる夜、赤穂浪士は袖先に山形模様のそろいの羽織を着込み、内蔵助が「一打三流」の山鹿流陣太鼓を打ち鳴らす。
吉良家の剣客清水一学がその太鼓の音を聞いて「あれぞまさしく山鹿流」と赤穂浪士の討ち入りに気づくのが定番となっている。

実際には赤穂浪士は合図の笛と鐘は用意したが、太鼓は持っていなかった。
門を叩き壊す音が『仮名手本忠臣蔵』で陣太鼓を打ち鳴らす音に変わったのではないかといわれている。
また山形模様は『仮名手本忠臣蔵』の衣装に採用されて広く認知されるようになったものだが、先行作でも使用が確認されている。
実際には赤穂浪士は討ち入りの際は火事装束に似せた黒装束でまとめ、頭巾に兜、黒小袖の下は鎖帷子を着込んだ完全武装だった。
羽織などの着用もばらばらだったといわれている。
山形模様ではないが、袖先には小袖と羽織をまとめるため、さらしを縫い付けている者もいた。

上杉家の忠臣

米沢藩主である上杉綱憲は吉良上野介の実子で、赤穂浪士の討ち入りを知った綱憲がいきり立って父の援軍に出馬しようとするところを家老千坂高房(または色部安長)が強く諫言しておしとどめる場面が忠臣蔵の物語でよく取り上げられる。
実際には、千坂兵部は元禄13年(1700年)に死去しており、色部又四郎は父親の喪中で出仕していず、上杉家の縁戚である高家畠山義寧が綱憲を止めている。

綱憲は、江戸では赤穂の浪人が多く危険であるとして、上野介に米沢へ隠居するよう勧めていた。
14日(30日)の吉良屋敷での茶会は江戸での別れの茶会であったといわれる。

赤穂浪士は討ち入りに際して上杉家からの援軍と、引きあげ時の追撃を警戒していた。
実際に上杉家では藩邸に討ち入りの報が入ると、直ちに数人を出して様子を探らせ、赤穂浪士に対抗できるだけの人数を集めていた。
そうしているうちに吉良上野介が討ち取られて、赤穂浪士たちは引きあげてしまったという報告が入った。
大石内蔵助の上杉の追撃をかわす策が成功したため追跡には失敗している。
映画などでは引き上げの途上、路上で庶民が歓呼を以って義士を迎える場面があるが、これは演劇などにおける創作である。

やがて、幕閣から上杉家へ赤穂浪士の処分は幕府が行うので上杉家は手出ししないよう命じられてしまった。
上杉家は幕府の命に従う外なかったが、世間からは腰抜けと冷笑されたといわれる。

吉良方の奮戦者は誰か

小林平八郎と清水一学は吉良家臣として劇作などに取り上げられ、上野介の身代わりとなって奮戦する小林平八郎の姿や、泉水にかけられた橋の上で二刀を構えた清水一学が赤穂浪士を大いに苦しめ、赤穂浪士第一の剣客堀部安兵衛と大立ち回りを演じる場面が描かれている。
しかし上杉家家臣が編纂した「大河内文書」によると、小林平八郎は逃げようとしたところを赤穂浪士につかまり、「上野介はどこか?」「身分が低い家臣なので知りません」「身分の低い家臣がなぜ絹の寝巻きなど着ている?」という問答の末に首をはねられたといわれている。
また清水一学の方も台所で数合斬り合って討たれたといわれており、特に活躍したとは伝えられていない。

大河内文書が最も目覚しい働きがあったとしている家臣は新貝弥七郎と山吉新八郎である。
新貝は玄関口で奮戦して討死し、山吉はより奮戦して近松勘六を斬り捨てて庭の池に叩き落したという。
山吉は重傷を負ったものの、一命をとりとめ、吉良家断絶後も吉良義周に従って配流先の信濃国諏訪藩へ供した。
彼らはいずれも上杉家から吉良義周に従って吉良家へ移ってきた元上杉家家臣である。

当時18歳の吉良家当主の吉良義周は薙刀術を持って、赤穂浪士の剣客のひとりである武林唯七(堀部安兵衛とも)と果敢に渡り合ったが、斬られて目に血が入り、気を失ったという。
事件後に来た幕府の検分役に重傷の身で気丈に応対して、検分役を感心させている。

吉良家は小林平八郎、清水一学、鳥居利右衛門、新貝弥七郎、須藤与一右衛門、斎藤清右衛門、左右田源八郎、大須賀次郎右衛門、小境源次郎、鈴木元右衛門、笠原七次郎、榊原平右衛門、鈴木松竹、牧野春斎、ほか足軽2名の死者を出し、負傷者23人であった。
赤穂浪士の負傷者は近松勘六、原惣右衛門の2名。

また、討ち入りの時に生き残ってしまったために「途中で逃げ出した」とする悪評を立てられた吉良家家老の左右田孫兵衛は、討ち入り後も配流された吉良義周のために尽くし、その死後は生涯他家への仕官を断ったことから、吉良家への忠節を尽くした家臣とみなされ汚名は除かれたと言われる。

四十六士切腹

大石内蔵助は吉田忠左衛門らを大目付・仙石久尚のもとに出頭させ口上書を提出し、幕府の裁定に委ねることにした。
幕府は46人の赤穂浪士をいったん泉岳寺から仙石伯耆守の屋敷に引き揚げさせて、それから細川綱利、松平定直、毛利綱元、水野忠之の4大名家に預けさせた。
浪士たちの待遇は各大名家で異なったらしく、大石らを預かった細川家や水野家は浪士たちを厚遇したが、松平家と毛利家では冷遇したようである。
細川家などは江戸の庶民から称賛を受けたようで「細川の 水の(水野)流れは清けれど ただ大海(毛利甲斐守)の沖(松平隠岐守)ぞ濁れる」との狂歌が残っている。
これは浪士たちを厚遇した細川家と水野家を称賛し、冷遇した毛利家と松平家を批判したものである。
もっとも、江戸の庶民の批判に閉口したか、毛利家や松平家でも浪士たちの待遇を改めたようである。

赤穂浪士の討ち入り行為を義挙として江戸の武士は熱烈に賞賛した。
本来、徒党を組んでの討ち入りは死罪に値するものの、忠義を奨励していた将軍綱吉や側用人柳沢吉保をはじめとする幕閣は死罪か助命かで対応に苦慮した。
また、当初は幕閣の中にも「夜中に秘かに吉良を襲撃するは夜盗と変わる事なし」と唱え、磔獄門を主張した者もいたといわれている(『柳沢家秘蔵実記』)。
その一方で、大目付仙石久尚、町奉行松前嘉広、勘定奉行荻原重秀などのようにこの主君仇討ち事件に大いに感激したというる幕閣もいて、その内部でも意見の違いがあった。
彼らを中心に構成する将軍の諮問機関である幕府評定所は12月23日 (旧暦)(2月8日)に以下のような浅野家寄りの意見書を将軍綱吉に提出している。
「一、内匠頭には少々存念があったようなので、その意を家臣が達するためにやむをえずに大勢で示し合わせた場合は徒党とは言いがたい。」
「一、内匠頭家臣達は真の忠義者であるので、このままお預りにしておき、いずれは赦免すべき。」
「一、吉良上野介家臣達で戦わなかった者は侍とは認められないので斬罪に処すべき。」
「一、上杉綱憲は父親の危機に何もしなかったので領地召し上げ。」

学者間でも議論がかわされ、林信篤や室鳩巣は義挙として助命を主張し、荻生徂徠は天下の法を曲げることはできないとして、武士の体面を重んじた上での切腹を主張する。

こうしたなかで将軍綱吉は徐々に助命に傾くが、かつての自分の裁断が過ちだったことを認めてしまうことにもなりかねないので、皇族から出された恩赦という形を得るため、輪王寺門主として上野寛永寺に居住する公弁法親王に拝謁し、それとなく法親王から恩赦を出すよう依頼するに至った。

しかし法親王は以下のように延べた。
「亡君の意思を継いで主が仇を討とうというのは比類なき忠義のことだとは思う。」
「しかしもしこの者どもを助命して晩年に堕落する者がでたらどうであろうか。」
「おそらく今回の義挙にまで傷が入ることになるであろう。」
「だが、今死を与えれば、後世までこの話は語り継がれていくことになるだろう。」
「時には死を与えることも情けとなる」
これをもっともと考えた将軍綱吉は赤穂浪士へ切腹を命じることを決意した。

元禄16年2月4日 (旧暦)(3月20日)、4大名家へ切腹の命が伝えられる。
また同日、幕府評定所の仙石久尚は、吉良家当主の吉良義周を呼び出し、吉良家改易と義周の信濃国諏訪藩高島への配流の処分を下した。

46人の赤穂浪士はその日のうちにお預かりの大名屋敷で切腹。
遺骸は主君浅野長矩と同じ泉岳寺に埋葬された。
浪士達は切腹の作法を知らず、前日に教えられた上で切腹したといわれている。

赤穂浪士の遺子のうち、出家した者を除き15歳以上の男子は流罪となった。
宝永3年1月20日 (旧暦)(1706年3月4日)、吉良義周が配流地で死去し、三河吉良家の宗家は絶えた。

宝永6年1月10日 (旧暦)(1709年2月19日)、将軍綱吉が死去し徳川家宣が将軍を継ぐと、恩赦が出され赤穂浪士の遺子たちも放免となった。
同年8月、浅野大学は赦免され、500石を拝領して再び旗本となり、寄合に列せられた。
正徳 (日本)3年(1713年)、内蔵助の三男である大石大三郎は広島市の浅野宗家に1,500石で召抱えられた。

逸話や伝承の類

元禄赤穂事件には忠臣蔵への演劇化による脚色も手伝って逸話や伝承の類が多く残っている。
以下、有名な逸話ではあるが、伝承の域をでていないものをあげる。

脇坂安照が吉良に一矢報いる

殿中刃傷があった直後、播磨国竜野藩主脇坂安照が隣藩の藩主である浅野長矩の無念を思いやって抱きかかえられて運ばれる吉良上野介とわざとぶつかり、吉良の血で大紋の家紋を汚すと、それを理由にして「無礼者」と吉良を殴りつける。
吉良は激痛でひっくり返り、「お許しを」と許しを請いながら逃げ去っていく。

村上喜剣

薩摩の剣客村上喜剣は、京都の一力茶屋で放蕩を尽くす大石内蔵助をみつけると、「亡君の恨みも晴らさず、この腰抜け、恥じ知らず、犬侍」と罵倒の限りを尽くし、最後に大石の顔につばを吐きかけて去っていった。
しかしその後、大石が吉良上野介を討ったことを知ると村上は無礼な態度を取ったことを恥じて大石が眠る泉岳寺で切腹した。
大高源五の墓の隣にある「刃道喜剣信士」という戒名が彫られた墓はこの村上喜剣のものであるといわれる。

大野や奥野は第二陣であった

大野九郎兵衛は実は逃げたわけではなく、大石が失敗した時に備えた第二陣の大将であり、米沢藩へ逃げ込むであろう吉良を待ちうけて山形県の板谷峠に潜伏していた。
しかし大石の討ち入りが成功したという報を聞き、大野は歓喜してその場で自害したとするもの(実際に板谷峠に大野の墓が現存しているが、後世の人間に作られたといわれる)。
奥野将監にも同様に第二陣の大将とする逸話があるが、彼にはさらに浅野長矩の隠し子の姫を幕府に知られぬようこっそり育てる役目を大石から命じられていたためやむなく脱盟したという逸話がある。

大高源五の詫び証文の逸話

大高源五が江戸下向しようとしている道中、団蔵というヤクザ者の馬子が「馬に乗れ」とからんできた。
大高は断ったが、腰抜け侍と見て調子に乗った団蔵は「詫び証文を書け」と因縁をつけてくる。
大高はここで騒ぎになるわけにはいかないと思って、おとなしくその証文を書いた。
これを見た団蔵は腰抜け侍ぶりを笑ったが、その後、赤穂浪士の討ち入りがあり、そのなかに大高がいたことを知った団蔵は己を恥じて出家の上、大高を弔ったという。
大高の詫び証文が三島の旧本陣世古家に所蔵されて現存している。
しかしながらこの大高の詫び証文と伝わるものは後世の人が作ったものといわれている。
神崎与五郎にも同様の逸話がある。

岡野金右衛門とお艶の逸話

岡野金右衛門は吉良邸絵図面を手に入れるため、吉良上野介の本所屋敷の普請を請け負っていた大工の棟梁の娘お艶と恋人になる。
しかし金右衛門はやがて本当にお艶に本当に恋するようになり、彼女を騙して絵図面を手に入れたことに自責の念を感じ、忠義と恋慕の間で苦しむ。
討ち入り後、泉岳寺へ向かう赤穂浪士を見守る人々の中に涙を流しながら岡野を見送る大工の父娘がいた。

大高源五と宝井其角

大高源五は、子葉の俳号を持ち、俳人としても名高い赤穂浪士である。
俳人宝井其角とも親交があったため、このような逸話が残る。
討ち入りの前夜、大高は煤払竹売に変装して吉良屋敷を探索していたが、両国橋で宝井其角と出会った。
其角は早速「年の瀬や水の流れも人の身も」と発句し、大高はこれに「あした待たるるこの宝船」と返し、仇討ちをほのめかす。

参考記事松浦の太鼓

赤埴源蔵、徳利の別れ

赤埴重賢は討ち入り直前にこれまで散々迷惑をかけた兄に今生の別れを告げようと兄の家を訪れた。
しかし兄は留守であった。
義姉もどうせ金の無心にでも来たのだろうと仮病をつかって出てこない。
やむなく源蔵は兄の羽織を下女に出してもらって、これを吊るして兄に見立てて酒をつぎ、以下のように言い、兄の羽織に対して涙を流しながら酒を飲み交わし、帰って行く。
「それがし、今日まで兄上にご迷惑おかけしてきましたが、このたび遠国へ旅立つこととなりました。」
「もう簡単にはお会いできますまい。」
「ぜひ兄上と姉上にもう一度お会いしたかったが、残念ながら叶いませんでした。」
「これにてお別れ申し上げる。」
その後帰宅した兄は下女から源蔵の様子を聞いて、もしや源蔵はと思いを巡らせる。
そして12月15日、吉良上野介の首をあげて泉岳寺へ進む赤穂浪士の中に弟源蔵の姿があった。

俵星玄蕃

杉野十平次は「夜泣き蕎麦屋の十助」として吉良邸の動向を探っていた。
やがて俵星玄蕃という常連客と親しくなった。
かねてより浅野贔屓であった玄蕃は、12月14日、赤穂浪士たちが吉良邸へ向けて出陣したことを知ると、是非助太刀しようと吉良邸へ向かった。
両国橋で赤穂浪士達と遭遇したが、大石には同道を断られた。
しかしその中になんと蕎麦屋の十助がいるではないか。
そして二人は今生の別れを交わした。
その後玄蕃はせめて赤穂浪士たちが本懐を遂げるまでこの両国橋で守りにつこうと仁王立ちになった。
これは文化 (元号)の頃の講釈師大玄斎蕃格による創作といわれる。
玄蕃の名は自らの「玄」と「蕃」の字の組み合わせ、「俵」は槍で米俵も突き上げるという意味、さらに「星」の字は仮名手本忠臣蔵の主人公大星由良助(大石内蔵助がモデル)の「星」の字。

上杉家の忠臣

討ち入りを聞いた上杉綱憲は実父を助けるため吉良邸への出兵を宣言。
しかし江戸家老色部安長(または千坂高房)が上杉の御家を守るために主人の前に立ちふさがり、「殿は吉良家の御当主にならず!上杉家の御当主でございますぞ!」と一喝。
綱憲はその迫力に威圧されて出兵を諦めるしかなかった。
大佛次郎の小説「赤穂浪士」に上杉家の江戸家老が上杉綱憲を止める場面があることにちなむ。
しかし色部は実父の喪に服していてこの日上杉家に出仕しておらず、このようなことはできなかった。
実際に綱憲を止めに来たのは家臣ではなく上杉家親族の高家畠山義寧。
また討ち入り中ではなく討ち入り後のことである。

色部や千坂ではなく、綱憲の母梅嶺院が綱憲を押しとどめるという逸話もある。

南部坂雪の別れ

討ち入り直前、大石内蔵助は南部坂の浅野長矩正室瑤泉院のところへ最期のあいさつへ向かう。
しかし吉良か上杉の間者が聞き耳を立てていたので口頭で討ち入りのことを伝えることはできず、その場では「他家に仕官するので最後に殿にご焼香させてください」と述べた。
瑤泉院はそれに激高し「不忠臣の焼香など殿は望まない。失せよ」と大石をののしって追い払う。
大石はこっそりと討ち入りに加わる者たちの名前を連ねた書状を置いて立ち去るより他になかった。
そして邸外から瑤泉院の方へ向けて土下座して不敬を詫びたというもの。

物語によっては、その後間者が連判状を盗もうとして発覚、瑤泉院が内蔵助の真意に気づき彼を罵った事を後悔するという場面がある場合も。

「不忠臣」のその後

赤穂藩浅野家家臣は士分だけでも300名以上いたが、このうち討ち入りに参加したのは46名で(寺坂は士分ではなく足軽身分)、8割以上が討ち入りに参加していない。
討ち入りに参加した藩士が義士として称えられれば称えられるほど、その反動として、討ち入りに参加しなかった者とその家族に対しては幕末まで厳しい批判が向けられることになっていった。
討ち入りに参加した浪士の子弟らは各藩から争って招聘される一方、脱盟者で後に仕官が適った者は大石信興以外には確認されていない。
小山田庄左衛門の父小山田一閃は、息子が同志片岡源五右衛門から金を奪って逃げだしたことを恥じて自害しており、また岡林直之も兄の旗本松平忠郷から義挙への不参加を責められ切腹させられた。
旗本内田家の養子に入ったはずの高田郡兵衛も悪評に耐えかねた養父内田三郎右衛門に家を追い出されるなどしている。
元赤穂藩士たち、およびその子孫は町人からさえ「義挙に加わらなんだ不忠者」と蔑まれ、味噌、醤油さえ売ってもらえず、出自を隠して変名を名乗るほかなかったとも伝えられる。

ただし、江戸時代に同様の事件で改易、取り潰しにあった大名家の家臣で徒党を組んで正面切った意趣返しをしたのは本件だけであり、その他の浪人に対し討ち入りをしなかったとして倫理的な批判が向けられたわけではない。

刃傷事件の原因

浅野内匠頭の「この間の遺恨覚えたか」という発言に関しては、『梶川筆記』にも『多門筆記』にも『内匠頭お預かり一件』に内匠頭が「遺恨あり」と証言していることが記されている。
いずれの書物も内匠頭が遺恨を主張していることについては触れているが、刃傷の原因となった「遺恨」の細かい内容については記していない。

『忠臣蔵』などの芝居に由来する通説では、院使饗応役の伊達左京亮が黄金100枚、狩野探幽の絵などを吉良上野介へ進物をしたのに対して、潔癖な浅野内匠頭は鰹節2本しか贈らなかった。
これが賄賂好き(後述の様に、現在の賄賂とは意味合いが異なる)な吉良上野介の不興を買い、饗応役に不慣れな浅野内匠頭に対して勅使への音信、増上寺の畳替え、殿中礼服の違いなど事あるごとに苛めたことが原因としているものが多い。
しかし内匠頭は17年前の天和 (日本)3年(1683年)にも同じ勅使饗応役に就任している。

また進物や賄賂についても、公費の予算から支出される現代の公務員と異なり、高家や勅使饗応役の大名は必要経費を自弁しなければならなかった。
広大な領地と莫大な石高をもつ大名ならこれも何とかなるであろうが、一方の高家は家格は高いとはいえど所詮旗本に過ぎないので、わずかな領地と石高しかもっていない。
吉良家は高家の最名門の家柄であるが、それでも石高で言えば4,200石。
5万石の浅野内匠頭の収入に及ぶべくもない。
高家が饗応役を命じられた大名から進物をもらうことは、賄賂というよりも授業料や必要経費の性格が強く、当時は別に卑しまれている類のものではなかった。

浅野内匠頭と吉良上野介のそれぞれの領地で産出する塩の製法と販路の問題で対立があったという説があった。
これは吉良出身の作家の尾崎士郎が自らの随筆『吉良の塩』の中で唱えていたものである。
しかし、実際には吉良上野の領地にあったとされる塩田の遺跡は大河内家の領土であった。
塩による遺恨説は、飛び地の領土に気付かずに吉良の領土に塩田があったとしてしまったものであり、今日では「塩田説」は否定されている。

両者の性格に原因を求める説もある。
浅野内匠頭については痞(つかえ)という、今で言う心療内科的な持病をもっていたという逸話が残っていることから、生来短気な人物だったのではないかとも言われている。
史実だけを見ると、浅野内匠頭は、47士の1人千馬三郎兵衛を閉門処分にしており、重臣近藤正憲も組頭から解任している。
また47士の1人不破数右衛門も藩から追放している。
このうち千馬は直言癖があり、不破は人を斬って、それぞれ内匠頭を激怒させたといわれている。

吉良上野介は、亀井茲親を苛めたという逸話が津和野に残っており、嫌がらせが常習的だったとも言われる。
大河ドラマ『元禄繚乱』などもこの説を採っており、吉良が田舎大名が困るのを面白がるような描き方をして、サディスト的な性格を持っていたことを強調している。
また史実を見ると、吉良上野介は、息子が当主となっている米沢藩上杉家に対して吉良家の大量の買い掛け金や自邸の普請費用を押し付けて、上杉家勘定方を困らせている。
破綻寸前となった上杉家を上杉鷹山が立て直すエピソードが有名だが、そこまで上杉家を傾けたのは上野介とも言われている。

しかし、実際には関ヶ原の役に際して徳川家康に敵対し、米沢藩50万石余りに減封されるものの、120万石を領有していた当時の藩士を解雇しなかった為、収支に対し人件費だけでも倍の出費を強いられた。
また体面を保つ為の出費も著しかったなど、一概に上野介のみを非難する向きも疑問があり、仮名手本忠臣蔵を盾に、自藩の失策を弁明しているとも受け取る事が出来る。

吉良上野介が浅野内匠頭に美しい小姓を譲ってくれるよう懇望したが、断られたため恨みをいだいたという男色(衆道)遺恨説も、幾つかの文献に記されている。

学術的にはほとんど取り上げられていないものの、陰謀史観の一つとして、本来は吉良上野介の側を陥れるはずだった陰謀に浅野内匠頭が利用されたとの説、桂昌院の従一位叙任を阻止しようとした御台所鷹司信子の陰謀説、幕府の役人と結びついた塩商人が赤穂の塩を狙い、赤穂藩を潰して天領にし儲けを得ようとしたという説もある。

東京大学総合図書館蔵、南葵文庫の『梶川日記』によれば、刃傷のときに浅野が「この間の遺恨覚えたか」などと叫んだ事実はなく、ただわめきながらいきなり斬り付けたとなっている。
しかし、上野介の傷を治療した栗崎道有という医者が、当時の内匠頭について「乱心にあらず」と記録している。

内蔵助の意図

内蔵助がお家再興を第一とし、討ち入りを引き伸ばして家臣に不評を買った点から、「初め内蔵助には討ち入りを行う意図は無かったのではないか」という推測もある。
実際には、刃傷事件4か月後の元禄14年7月の内蔵助の実筆の手紙(お家再興嘆願を依頼された遠林寺の僧侶祐海への手紙)に「吉良殿つつがなきところは、大学様ご安否次第と存じ候」とある。

幕府裁定の正当性

本件に関する幕府の裁定は浅野の殿中抜刀に対する処罰だけで、これは相手の生死や傷害の程度・抜刀の理由に関係なく、無条件に死罪となる。
これに対して吉良は抜刀はしていないので理由の如何を問わず無罪となる。
主君である浅野内匠頭だけが切腹となり、吉良上野介に咎めがなかったのは「喧嘩」に反すると浅野家の家臣達が憤慨したと言われており、確かに江戸前期の刃傷事件には喧嘩両成敗の“判例”がいくつかある。

元禄赤穂事件以前に起こった江戸城内での刃傷沙汰には次のものがある。

寛永4年(1627年):小姓組猶村孫九郎が、西の丸で木造氏、鈴木氏に切りつけた事件。
鈴木は死亡。
木造は助かった。
喧嘩両成敗により猶村は切腹改易、鈴木と木造も改易となった。

寛永5年(1628年):目付豊島明重が、西の丸表御殿で縁談のもつれから老中井上正就に斬りつけ、正就と制止しようとした青木忠精を殺害し、その場で自害した豊島事件

貞享元年(1684年):若年寄稲葉正休が、本丸で大老堀田正俊を殺害し、正休もその場で殺害された事件。

江戸城外でも刃傷事件が発生している。

慶長14年(1609年):水野忠胤の屋敷で、久米左平次(大番士)が松平忠頼(遠江国浜松藩主)と服部半八(大番士)に刃傷に及ぶ。
久米と松平はその場で斬られて死んだ。
喧嘩両成敗により久米家と松平家はともに改易に処され、服部も捕らえられて切腹改易となった。
また直接は関係ない水野も切腹となった。
原因は囲碁の勝負に松平が口を挟んだためであった。

延宝8年(1680年)6月26日、四代将軍徳川家綱葬儀中の増上寺において長矩の母方の叔父にあたる内藤忠勝が永井尚長に対して刃傷に及んだ。
内藤は切腹改易。
永井は即死した。
永井家も改易に処されたが、これは喧嘩両成敗ではなく無嗣のためであった。

徳川家光の時代から徳川綱吉の時代まで長く刃傷事件がなく、また綱吉時代に起こった殿中刃傷にしても、被害者がその場で殺害されており、ただ加害者を切腹させればよいだけで、被害者も加害者も生き残った例が長く存在しなかった。

「喧嘩両成敗」は、秩序が崩壊した戦国時代 (日本)に誕生した慣習法であり、かぶき者が好んだ法であった。
戦国武将でもある徳川家康や徳川秀忠はこれを幕法として採用したが、事件当時はすでに百年近い時を経た元禄の世である。
戦国時代の残滓が残っているとはいえ、「武断政治」から「文治政治」への転換が図られて、「喧嘩両成敗」という理非を問わずに双方を処断するというやり方は、無実の人間を残虐な刑罰に晒す危険性があると当時の儒学者などからの批判もあったという。

江戸幕府は身分制社会であり、法や捜査は決して近代的でないし平等でもない。
「喧嘩両成敗」の概念は要するに捜査の価値もない禄高の低い軽輩者の喧嘩をおさめ、捜査の手間暇を省くために適用されることが多かった。
大名身分に喧嘩両成敗の適用は伊達村和の事例ぐらいしかない。

後世にひとつだけ浅野と吉良の事件に似た刃傷事件が発生している。
徳川吉宗の時代の享保10年7月28日 (旧暦)(1726年8月25日)に江戸城本丸で発生した事件である。
水野忠恒 (大名)(松本藩主7万石)が扇子を取りに部屋に戻ったところ、毛利師就(長府藩主5万7,000石)が拾ってくれたが、そのとき毛利は「そこもとの扇子ここにござる」と薄く笑った。
そのため水野は侮辱されたと思い、毛利を討とうと斬りかかった。
しかし、水野は周りにいた者に取り押さえられ、水野も毛利も双方が助かってしまった。
このとき将軍徳川吉宗は、水野を秋元喬房に預かりとして改易に処しながらも切腹はさせず、また親族の水野忠穀に信濃国佐久郡7,000石を与えて水野家を再興させた。
そのうえで毛利家は咎めなしとした。
その結果、水野家からも毛利家からも不満の声は上がらなかった。
同じ事例でも徳川吉宗と徳川綱吉の違いがここにあると言われる。

後世の顕彰
1868年(明治元年11月)、東京に移った明治天皇は泉岳寺に勅使を派遣し、大石らを嘉賞する勅語を贈った。
これは江戸庶民に親しまれていた大石を顕彰することで、新政府への共感を得る効果があった。

[English Translation]