兵農分離 (Heinobunri)
兵農分離(へいのうぶんり)とは、安土桃山から江戸時代にかけて推し進められた武士階級以外の武装解除を指す。
のち徳川家が国政を管掌する途上において、武士と他の階級を明確に区別した。
そして武士を最上位に置く体制を確立した。
日本の中世期においては、幕府の地頭、御家人、その郎党といった正規の武士以外に地侍(土豪)、野伏、農民等も武装していた。
武士は律令時代の武装開拓農場主を出自としている。
農場主が小作人の子弟を郎党として戦時の体制を構成していたため、兵と農は不離あるいは同義語に近い。
また治安維持を担う政府が形骸化していたために流通業者も武装しなければならなかった。
このため、農業系武士の代表が鎌倉幕府の御家人たちであるならば、商業系武士の代表としては運輸業者であったといわれる楠木正成等が挙げられる。
つまり武装を必要としない江戸時代の安定を見るまでは、あらゆる階層が武装していたと考えるほうがよい。
元々、兵農分離は戦国大名の必要性から始まっている。
すなわち、継続的に戦闘が行われる戦国期においては、戦国大名はいつでも、迅速に、また長期的に政略的・軍事的要地に精兵を動員できるようにしたかった。
だが、室町期以前のような家来達が所領に在住する地方領主制では、召集するのに時間が掛かった。
また、彼らの郎党には半士半農の者もおり、農繁期の動員に対して不満をもたれるといった問題もあった。
このため大内氏や三好氏などは京に軍を進めることには成功したが、その覇権を維持することはできなかった。
これに対し、家臣を城下に集めて専任の常備軍(この常備軍は西洋軍事史で規定されるそれとは全くの別物である事に注意)とすれば、上記の要求を満たせる上、兵の錬度、武具の質も上げることができた。
一方、家臣を城下に集中させれば、それ以外の者が武力をもつことは安定した支配への脅威となる。
このため、その武装を禁じる、これが兵農分離である。
有力な戦国大名の下で、これらの施策は一部行われていた。
ただし国人・地侍等の既得権授益層の解体を意味するため、最終的に徹底しされるのは、豊臣秀吉の天下統一後である。
兵農分離による家臣の城下への集住は、楽市楽座とともに、城下町発展の大きな要因となる。
具体的な政策として検地、刀狩、海賊禁止令が施行された。
これらは、土地の支配関係を明らかにし、武士以外の武装権を剥奪するものであった。
また、海上においては海賊勢力を解体して大名の水軍武士と漁民に分離するものであった。
江戸時代に入るとこの方針は一層強化された。
支配階層を武士として、それ以外の農民、職人、商人はその下に入る階層として厳密に区別された。
原則、身分の移動は行えなくなったが、江戸中期以降、この体制は再び崩れ始める。