北陸朝廷 (Hokuriku Chotei (The Imperial Court In The Hokuriku Region))
北陸朝廷(ほくりくちょうてい)は、南北朝時代 (日本)に南朝 (日本)方武将の擁立や僭称により北陸に存在したと考えられる朝廷のことである。
北陸朝廷説
湊川の戦い後、比叡山に逃れた後醍醐天皇は京に入った足利尊氏との間で和議の交渉を進めていた。
これに危機感を抱いた新田義貞・脇屋義助は恒良親王・尊良親王を奉戴して1336年(延元元年)10月に北陸へ落ちて行った。
後醍醐天皇はこの時期に多くの皇子を下向させており、恒良・尊良の下向もこの計画のひとつである。
『太平記』巻17には、恒良親王に皇位を譲ったとの記述がある(ただし、後醍醐天皇は尊氏との和議を成立させて比叡山を降り、後に京を脱出して吉野において南朝を開いたことで、皇位は無意味化される)。
『白河文書』には結城宗広宛に義貞・義助が出した1336年(延元元年)11月12日付、1337年(延元2年)2月9日付綸旨が残されている。
また、ある「感状」が残っている。
1346年に私年号「白鹿2年」を用いて越前国司中院良定から得江九郎頼員へ当てられたものである。(得江文書・白鹿二年行貞奉執達状)。
これらのことから、当時北陸地方・東北地方に南朝方武将の擁立する「朝廷」が存在したとされる。
三浦芳聖の主張する北陸朝廷
「自称天皇」の一人・三浦芳聖は、尊良親王が北陸朝廷の天皇であり、自らがその子孫であると主張している。