城柵 (Josaku (official defense site))

城柵(じょうさく)とは古代日本の律令制下、現代の新潟県北部及び東北地方を支配下に治めるために設置した防御施設を備えた官衙を指す歴史学用語。
史料上では「○×城」、「○×柵」として記録されているところから、それらを城柵と総称する。
当時は、どちらの字も「き」と読んでいたらしい。
前九年の役、後三年の役で安倍氏 (奥州)や出羽清原氏が軍事拠点として設置した柵は成り立ちや性格が異なるので、一般的にはここでいう城柵には含めない。

日本海側の城柵

大化3年(647年)、渟足柵が現在の新潟市沼垂付近に設置されたのが記録に残る初見である。

翌、大化4年(648年)には磐舟柵が現在の村上市岩船付近に設置された。

また、斉明天皇4年(658年)には都岐沙羅柵という名が『日本書紀』に記されているが、いつどこに設置されたのかは全く不明である。

更に『続日本紀』の和銅2年7月1日 (旧暦)(ユリウス暦709年8月10日)の条に出羽柵に武器を運搬したとの記載があることから、その時点には出羽柵が存在したことがわかる。
出羽柵は出羽郡(現庄内地方)に設置されたと思われるが、詳しい位置については不明である。
また、和銅元年(708年)には越後国に出羽郡が設けられていることから、この前後の設置であろうと推測されている。
和銅5年(712年)、出羽郡は出羽国に昇格し、出羽柵が国府とされた。
その後、出羽柵は天平5年12月26日 (旧暦)(ユリウス暦734年2月4日)に現在の秋田市に移設され、秋田城と改名されたと見られる。
しかし、蝦夷の居住地域の真ん中に設置されたことから、度々蝦夷との抗争により攻撃を受けた。
このため、延暦23年(804年)に国府を「河辺府」に移設したとされる。
但し、秋田城は放棄されず、軍事機能を強化して国司が駐在して指揮した。
このことから後に出羽介は秋田城介と呼ばれるようになる。
また、国府の移設場所には様々な説があるが、最終的には現代の酒田市にある城輪柵に移設されたと見られている。

また、天平宝字3年(759年)には雄勝郡に雄勝城が設置されている。
雄勝城の詳細な位置は不明で、払田柵跡をそれに比定する意見もあるが、払田柵跡は記録に現れていない城柵であるという意見が有力である。

太平洋側の城柵

神亀元年(724年)大野東人によって多賀城が設置された。
それ以前の陸奥国国府は現代の仙台市長町にある郡山遺跡であると見られている。

『続日本紀』の天平9年(737年)の記事には多賀柵、玉造柵、色麻柵、新田柵、牡鹿柵の名が見られ、当時多賀城が多賀柵と呼ばれていたこと、ほぼ同時に現宮城県内に4つの城柵が設けられたことがわかっている。

8世紀後半になると桃生城、伊治城、覚べつ城(かくべつじょう)などが設けられる。
9世紀にはいると現在の岩手県地域にも城柵が作られはじめ、延暦21年(802年)に坂上田村麻呂により胆沢城が設置され、鎮守府が多賀城から移された。
翌年には志波城が設置されたが、雫石川の氾濫により度々被害を受けたことから弘仁2年(811年)廃絶され、徳丹城に移設された。

城柵の役割

城柵は征夷の最前線基地であり、軍事的に蝦夷を屈服させた地域に軍事拠点として設けられた。
また、律令政府の配下に置かれたそれらの地域には北陸や関東から柵戸と呼ばれる多くの移民が送り込まれたが、それらの移民の拠点、支配するための官衙、配下に置いた俘囚(服属蝦夷)が朝貢したり、それに対する饗応をする役目も負っていた。
それに対応するために各城柵には国司四等官・史生、鎮官などが城司に任命され、城柵を支配した。
また、軍事力として坂東諸国から徴発された鎮兵が駐屯した。
秋田城についてはこれらの機能に加えて渤海 (国)等の外国使節の饗応や北方諸民族との交易の場が設定されていたのではないかとする見解が、発掘結果等を踏まえて出されている。

城司の権限は大きく、国司の権限を分掌し、設置された辺郡の郡司や辺郡内に居住する俘囚を支配し、鎮兵や俘囚により編成された俘軍の指揮権を持った。
陸奥では中央に貢納する租庸調・庸の貢納が免除され、城柵の運営財源として使用された。

移民である柵戸は城柵の周辺に出身地域ごとに居住地を定められ、周辺を開墾したと見られている。
それを示すように、古代奥羽の郷名には板東と共通するものが見られる。
しかし、柵戸の生活は厳しく、逃亡するものも多かった。
弘仁2年(811年)には陸奥出羽で百姓の墾田を収公するのを禁じる太政官符が出されたことが『類聚三代格』からわかる。
その他にも度々柵戸の租税の一部を免除する布告を出し、慰留に努めている。

しかし、征夷政策の収束と共に10世紀頃から急速に城柵は廃れ、11世紀には史料上からも考古学的成果からも消滅する事が確認されている。
10世紀頃から俘囚と移民の混雑が進み、城柵の役割が終わったものと見られる。
それと共に俘囚長と呼ばれる安倍氏 (奥州)、清原氏などが台頭する。

城柵の景観

考古学上の成果によると、一般的な城柵は小高い丘上に官衙が設置され、その周辺に鎮兵の住居を配置し、周囲を土塁、材木列塀などを巡らし、望楼を設けて防御を固めている。
また、周辺には移民の開拓地が置かれ、有事には移民は城柵に避難したようである。

『養老令』によると「凡縁東辺北辺西辺諸郡人居、皆於城堡内安置。其営田之所、唯置庄舎。至農時堪営作者、出就庄田 謂、強壮者出就田舎、老少者留在堡内也。収歛訖勒還 謂、要勒而還於城堡也。」との記述があり、考古学の成果とほぼ一致する。

渟足柵大化3年(647年)不明沼垂郡不明養老年間には存在
磐舟柵大化4年(648年)不明岩船郡不明
都岐沙羅柵不明不明不明不明斉明天皇4年(658年)には存在
出羽柵不明天平宝字4年(760年)頃出羽郡不明天平5年12月(734年2月)秋田に移設。出羽国府。

秋田城天平宝字4年(760年)頃11世紀頃秋田郡(秋田城廃絶後に設置)秋田城跡延暦23年(804年)に国府機能は移設。

河辺府天平宝字3年(759年)不明河辺郡不明
雄勝城天平宝字3年(759年)不明雄勝郡不明
由利柵不明不明由利郡不明『続日本紀』宝亀11年(780年)8月23日の条
払田柵9世紀初頭10世紀末不明払田柵跡河辺府説、雄勝城説、史料未記録の城柵説、第2次雄勝城説
城輪柵9世紀10世紀出羽郡か城輪柵跡出羽国府
多賀城神亀元年(724年)中世宮城郡多賀城跡陸奥国府。10世紀中頃には国府機能は周辺の国司館に移動。

玉造柵天平9年(737年)頃不明玉造郡小寺遺跡か後に玉造塞(宮沢遺跡?)へ移行か
色麻柵天平9年(737年)頃不明色麻郡城生遺跡か
新田柵天平9年(737年)頃不明新田郡新田柵跡推定地
牡鹿柵天平9年(737年)頃不明牡鹿郡赤井遺跡か
桃生城天平宝字3年(759年)不明桃生郡桃生城跡
伊治城神護景雲元年(767年)9世紀初頭栗原郡伊治城跡
覚べつ城宝亀11年(780年)不明不明不明
胆沢城延暦21年(802年)10世紀後半頃胆沢郡胆沢城跡
中山柵延暦23年(804年)以前不明不明不明『続日本紀』
志波城延暦22年(803年)弘仁2年(811年)志波郡か志波城跡徳丹城に移設廃止
徳丹城弘仁2年(811年)9世紀中頃志波郡徳丹城跡

[English Translation]