塩谷氏 (SHIONOYA clan)
塩谷氏(しおのやし)は日本の氏族。
塩冶氏(えんやし)とは別である。
源姓塩谷氏(堀江氏)
源義親の子である塩谷頼純が大治 (日本)5年(1130年)頃、下野国塩谷郡に下り塩谷荘司として塩谷姓を創始したのがはじまりで、塩谷荘三十三郷三万八千町を支配。
代々左衛門尉を名乗る。
居城は堀江山城。
御前原城とする説もある。
菩提寺は、奉り墓として寺山観音寺、埋め墓として六房寺の両墓制であったと言われているが定かではない。
また、存在を裏付ける確実な史料類は存在しない(『ふるさと矢板のあゆみ』)。
5代目塩谷朝義に子が無かったため、宇都宮業綱の次男塩谷朝業を養子に迎え家督を相続させ、源姓塩谷氏の時代は終焉する。
藤姓塩谷氏
源姓塩谷氏の最後の当主・朝義の養子となった竹千代が元服して朝業と名乗り、家督を継いだことで藤姓塩谷氏の歴史が始まる(「秋田塩谷系譜」)。
朝業は婿として養子になったとも伝わる(「喜連川塩谷系譜」)。
藤姓とは、朝業の実家である宇都宮氏が藤原氏の出自であったためである。
朝業は、堀江山城の山続きの北側500mほどの山頂に新たに川崎城 (下野国)を築き居城とする。
菩提寺は長興寺 (栃木県矢板市)。
藤姓塩谷氏は、約260年~300年間に渡り続くが、応永30年(1423年)8月9日、塩谷教綱の時、鎌倉公方足利持氏と結び、宇都宮氏に謀反。
時の宇都宮当主、宇都宮持綱を自領の幸岡原に狩りに招いて殺害。
この35年後の長禄2年(1458年)5月8日、今度は教綱が、和睦を口実に宇都宮城に招かれたところを殺害され、藤姓塩谷氏は衰退する(5月13日に宇都宮城からの帰りの氏家町で討たれたと記す文献もあり)。
教綱殺害により、藤姓塩谷氏時代が終焉するが、その経緯には2説がある。
教綱の死で藤姓塩谷氏が断絶し、宇都宮正綱の四男塩谷孝綱が名跡を継いで宇都宮氏の影響下に入ったとする説(『下野国誌』所収「塩谷系図」)と、教綱の子に塩谷隆綱があって文明 (日本)10年(1478年)正月18日に塩谷弥五郎を養子に迎え家督を継がせたという説(「秋田塩谷系譜」)である。
後者の説では、この養子関係に拠って宇都宮氏と塩谷氏は和睦したという。
重興塩谷氏(再興塩谷氏)
孝綱は藤姓塩谷氏と同族の宇都宮氏嫡流の出身なので、藤姓であることには変わりないが(ただし孝綱の父の正綱は芳賀氏(清原氏)からの養子)、それ以前と区別して重興塩谷氏(再興塩谷氏)などと呼ばれる。
「秋田塩谷系譜」では、塩谷義孝と塩谷義綱の間に塩谷時綱、塩谷冬綱、塩谷通綱という3人の当主がいたとするが、史実と合わないため実在が疑わしい。
但し、後世において、功績のあった塩谷氏の一族の者に当主の地位を追贈した可能性もあるので、完全に架空の存在であるとも言い切れない。
また、塩谷義通については、義綱が家督を継いだのは天正2年(1574年)11月のことであり、義孝の死去から10年のブランクがあるため、正室の子である義綱が元服するまでの間、繋ぎ的に塩谷氏の当主であった可能性も指摘されている。
一説では、時綱が義孝の弟で、結城晴朝と戦って討死した乙畑孫四郎こと塩谷義尾(没年が同じ永禄二年(1559年))、冬綱が孝信、通綱が義通とも言われている。
塩谷氏は、重興塩谷氏の時代に入り、永禄7年(1564年)10月7日に、義孝が弟の塩谷孝信に殺害され川崎城を奪われて以降内紛が続き、天正18年(1590年)には、家臣の岡本正親に独立されるなど衰退していく。
そして、文禄4年(1595年)2月8日、塩谷義綱には豊臣秀吉により改易が言い渡される。
系譜に理由の記載は無いが、この2年後に本家である宇都宮氏も改易された事実とあわせて考えると、豊臣政権内の政争に巻き込まれたものと考えられているが定かではない。
また、塩谷氏については、小田原の役の際、直接参陣しなかったために改易されたとする見解もあるが、義綱は、天正17年(1589年)6月29日に上洛して秀吉に恭順の意を表しており、小田原の陣では、名代として家臣の岡本正親を派遣していることから、この時に改易になったとは考え難い(『ふるさと矢板のあゆみ』)。
文禄4年(1595年)に改易されたが、捨扶持として1000石が義綱に安堵された。
しかし義綱はこれを捨て出奔し、義綱庶兄の義通が岡本正親の甥であり娘婿である関係からこの1000石を継いだという。
そして義通の跡は次男・岡本保真が家督を継いだ。
しかし、その保真は、正保元年(1644年)3月10日、甥の岡本義政の謀略により殺害(泉騒動)され、保真に男子が無かったため野州塩谷氏は断絶。
重興塩谷氏の時代も終焉した。
佐竹家臣時代
義綱は、改易となった後、慶長2年(1597年)正月2日より常陸国の佐竹義宣 (右京大夫)に仕え、慶長7年(1602年)に佐竹氏が出羽国に転封となると、これに従い、出羽国平鹿郡横手に移り十二所城代を務め、子孫は、佐竹氏の家老職などを務める。
しかし、その最後の当主である塩谷温綱に子が無かったため、直系は明治時代に断絶する。
児玉党系塩谷氏
武蔵七党の一角を占める児玉党の本宗家3代目児玉家行(有道姓)の次男、児玉二郎家遠(後の塩谷家遠)が、武蔵国児玉郡大寄郷若泉庄の塩谷(現在の埼玉県本庄市児玉町塩谷)の地を父から与えられ、子孫が土着して名乗った事から始まる児玉党を構成する氏族。
従って、藤原氏とあるが本来の初姓は有道氏であり、12世紀中には塩谷を名乗っていたものと見られる。
児玉党系塩谷氏の活躍については、『源平盛衰記』などの資料に見られる。
『武蔵七党系図』では、嫡流を、家遠→塩谷経遠→塩谷経光(児玉二郎)としている(複数系図が存在している為、断定はできない)。
また、家遠の子、塩谷維弘は、一ノ谷の戦いに参戦し、奥州合戦にて戦死し、維弘の子、塩谷維盛とその子である塩谷維光は、共に建暦3年(1213年)5月2日の和田合戦時に討死にしたと伝えられている。
家遠の兄である庄家弘(児玉党本宗家4代目)は児玉郡の栗崎の地へ行き、庄氏を名乗り、弟の富田親家は富田の地へ土着して富田氏を名乗った。
遵って、児玉党系塩谷氏は、庄氏・富田氏と同族である。