壬申の乱 (Jinshin War)
壬申の乱(じんしんのらん)とは天武天皇元年(672年)に起きた日本古代最大の内乱であり、天智天皇の太子・大友皇子(おおとものみこ、明治3年(1870年)、弘文天皇の称号を追号)に対し皇弟・大海人皇子(おおあまのみこ、後の天武天皇)が地方豪族を味方に付けて反旗をひるがえしたものである。
反乱者である大海人皇子が勝利するという、例の少ない内乱であった。
天武天皇元年は干支で壬申(じんしん、みずのえさる)にあたるためこれを壬申の乱と呼んでいる。
なお「天皇位をめぐる戦乱」であるため、戦前は旧制高等学校以上に進学しないとこの乱については教育されなかった。
乱の経過
660年代後半、都を近江宮へ移していた天智天皇は同母弟の大海人皇子を皇太子(日本書紀には「皇太弟」とある。また、大海人皇子の立太子そのものを日本書紀の創作とする説もある)に立てていたが天智天皇10年10月17日 (旧暦)(671年11月26日)、自身の皇子である大友皇子を太政大臣につけて後継とする意思をみせ始めた。
その後、天智天皇は病に臥せる。
大海人皇子は大友皇子を皇太子として推挙し自ら出家を申し出、吉野宮(奈良県吉野)に下った。
天智天皇は大海人皇子の申し出を受け入れた。
12月3日 (旧暦)(672年1月10日)、近江宮において天智天皇が46歳で没する。
大友皇子が後を継ぐが、年はまだ24歳に過ぎなかった。
大海人皇子は天武天皇元年6月24日 (旧暦)(7月27日)に吉野を出立し伊賀国、伊勢国を経由して美濃国に逃れた。
美濃では大海人皇子の指示を受けて多品治が既に兵を興しており、不破の道を封鎖した。
これにより皇子は東海道、東山道の諸国から兵を動員することができるようになった。
美濃に入り、東国からの兵力を集めた大海人皇子は7月2日 (旧暦)(8月3日)に軍勢を二手にわけて大和国と近江の二方面に送り出した。
近江朝廷の大友皇子側は東国と吉備国、筑紫国(九州)に兵力動員を命じる使者を派遣したが、東国の使者は大海人皇子側の部隊に阻まれ吉備と筑紫では現地の総領を動かすことができなかった。
それでも、近い諸国から兵力を集めることができた。
大和では大海人皇子が去ったあと、近江朝が倭京(飛鳥の古い都)に兵を集めていたが大伴吹負が挙兵してその部隊の指揮権を奪取した。
吹負はこのあと西と北から来襲する近江朝の軍と激戦を繰り広げた。
この方面では近江朝の方が優勢で吹負の軍は度々敗走したが、吹負は繰り返し軍を再結集して敵を撃退した。
やがて紀阿閉麻呂が指揮する美濃からの援軍が到着して吹負の窮境を救った。
近江朝の軍は美濃にも向かったが、指導部の足並みの乱れから前進が滞った。
村国男依らに率いられて直進した大海人皇子側の部隊は7月7日 (旧暦)(8月8日)に息長の横河で戦端を開き、以後連戦連勝して進撃を続けた。
7月22日 (旧暦)(8月23日)に瀬田橋の戦い(滋賀県大津市唐橋町)で近江朝廷軍が大敗すると、翌7月23日 (旧暦)(8月24日)に大友皇子が自決し、乱は収束した。
翌天武天皇2年(673年)2月、大海人皇子は飛鳥浄御原宮(あすかのきよみはらのみや)を造って即位した。
近江朝廷が滅び、再び都は飛鳥(奈良県高市郡明日香村)に移されることになった。
また論功行賞と秩序回復のため新たな制度の構築、すなわち服制の改定、八色の姓(やくさのかばね)の制定、冠位制度の改定などが行われた。
天武天皇は天智天皇よりもさらに中央集権制を進めていったのである。
乱の原因
壬申の乱の原因として、いくつかの説が挙げられている。
天智天皇は即位以前の天智天皇2年(663年)に百済の復興を企図して朝鮮半島へ出兵して新羅・唐連合軍と戦うことになったが、白村江の戦いでの大敗により百済復興戦争は大失敗に終わった。
このため天智天皇は国防施設を玄界灘や瀬戸内海の沿岸に築くとともに百済難民を東国へ移住させ、都を奈良盆地の飛鳥から琵琶湖南端の近江宮へ移した。
また、国内の政治改革も急進的に行われた。
しかしこれらの動きは豪族や民衆に新たな負担を与えることとなり、少なくない不満を生んだと考えられている。
近江宮遷都の際には火災が多発しており、遷都に対する豪族・民衆の不満の現れだとされている。
さらに、天智の改革においては地方豪族(特に東国)を軽視したために地方豪族の間で不平が高まったと見られている。
これらの不満の高まりが壬申の乱の背景となっていった。
また、飛鳥時代に多発した皇位継承紛争の1つと見る説もある。
当時、律令制の導入を目指していた天智天皇は旧来の同母兄弟間での皇位継承の慣例に代わって唐にならった嫡子相続制(すなわち大友皇子(弘文天皇)への継承)の導入を目指しており、大海人皇子の不満を高めていった。
さらに大海人皇子は有能な政治家であったらしく、これらを背景として大海人皇子の皇位継承を支持する勢力が形成され乱の発生へつながっていったとしている。
これらを踏まえて、前述した天智改革への不満の醸成が壬申の乱の下地を作り天智以後の皇位継承の争いが乱発生の契機となったとする説が有力となっている。
また、天智天皇と大海人皇子の不和関係に原因を求める説もある。
江戸時代の伴信友は『万葉集』に収録されている額田王(女性)の和歌の内容から、額田王をめぐる争いが天智・天武間の不和の遠因ではないかと推測している。
異説・俗説
九州王朝内の内紛であるとする主張もある(詳しくは九州王朝説を参照)。
乱後、大友皇子が東海道を下り、上総国に逃れたとする主張もある(詳しくは飯給駅を参照)。
中国には壬申の乱を「倭国」と「日本国」との戦いであるとする見解が存在したとする主張がある(詳しくは旧唐書を参照)。