大正政変 (Taisho Seihen (Political disturbances in the Taisho Period))

大正政変(たいしょうせいへん)は、1913年(大正2年)2月、前年末から起こった憲政擁護運動(第1次)によって第3次桂内閣が倒れたことを指す。
広義には、第2次西園寺内閣の倒壊から、第3次桂内閣を経て第1次山本内閣の時代までとされる。

概略

明治末以来、藩閥勢力の代表で陸軍に近い桂太郎(長州藩出身)と立憲政友会の西園寺公望(公家出身)が「情意投合」のもと、交互に政権を担う慣例が続いていた(桂園時代と呼ばれる)。

明治天皇崩御(死去)直後の1912年12月、第2次西園寺内閣は日露戦争後の財政難から緊縮財政の方針をとり、陸軍の二個師団増設要求を拒んだ。
それに対し、陸軍大臣上原勇作は帷幄上奏権を利用して、単独で即位直後の大正天皇に直接辞表を提出した。
陸軍は後任を送らなかったため、西園寺内閣は総辞職に追いこまれる事態となった。

元老会議は後継首相に桂太郎を指名したが、桂は半年前に内大臣兼侍従長になったばかりであり、この点に関して「宮中・府中の別」を乱すものとして非難の声があがった。
また、財政に関心の深い財界からも軍閥の横暴に批判の声が高まった。
さらに陸軍(山県閥)による非立憲的な倒閣の策動や藩閥政治家の再出馬に憤る声が広汎に広がって、憲政擁護運動(護憲運動)がはじまった。
12月13日、東京の新聞記者・弁護士らが憲政振作会を組織して二個師団増設反対を決議し、翌14日には交詢社有志が発起人となって時局懇談会をひらいて、会の名を憲政擁護会とした。
19日の歌舞伎座での憲政擁護第1回大会では、政友会、国民党の代議士や新聞記者のほか実業家や学生も参加し、約3,000の聴衆を集めて「閥族打破、憲政擁護」を決議している。
12月21日、西園寺内閣が正式に総辞職して第3次桂太郎内閣が発足した。
27日には、野党の国会議員や新聞記者、学者らが集まって護憲運動の地方への拡大を決めた。

翌年1月、「憲政擁護」を叫ぶ大会が各地でひらかれ、日露戦争後の重税に苦しむ商工業者や都市民衆が多数これに参加した。
21日、議会の開会予定をさらに15日間停会した桂内閣の処置により、かえって運動は加熱し、24日の東京での憲政擁護第2回大会はじめ、運動は全国的なひろがりをみせて一大国民運動となっていった。
こうした動きに対し、桂首相は明治天皇の諒闇中(服喪期間)であるから政争を中止するように諭した大正天皇の詔勅(優詔)を受けてこれを乱発し、政府批判を封じた(優詔政策)。

この間、立憲政友会と立憲国民党の提携が成立し、とくに立憲政友会党員の尾崎行雄や立憲国民党党首の犬養毅が中心となって活躍した。
2月5日、再会された議会で政友会や国民党などの野党は内閣不信任決議案を議会に提出し、ただちに停会となった。
このときの「彼らは常に口を開けば、直ちに忠愛を唱へ、恰も忠君愛国の一手専売の如く唱へておりますが—(中略)—玉座を以て胸壁となし、詔勅を以て弾丸に代へて政敵を倒さんとするものではないか」のフレーズで知られる尾崎行雄の桂首相弾劾演説は有名である。

2月9日の憲政擁護第3大会は2万の集会となり、さらに、翌10日には数万人の民衆が議会を包囲して野党を激励、民衆示威のなかで桂は帝国議会の開会をむかえた。
桂は議会解散を決意したが、解散は内乱誘発を招くとの大岡育造衆議院議長からの忠告により内閣総辞職を決意した。
そして、閣僚に辞表を書くよう指示し、再び停会を命じた
議会停会に憤激した民衆は警察署や交番、御用新聞の国民新聞社などを襲撃した。
つづいて同様の騒擾は大阪市・神戸市・広島市・京都市などの各市へも飛び火した。

2月20日、桂内閣は発足よりわずか53日で総辞職、「五十日内閣」と呼ばれた。
後継の首相には海軍大将で薩摩閥の山本権兵衛が就いた。

桂園時代の終焉

大正政変は、山縣有朋・桂率いる陸軍・長州閥が第2次西園寺内閣を倒閣し、これに反対する民衆運動が政党組織や優詔政策といった小手先の政策で交わそうとする「閥族内閣」を打倒したというイメージが強い。
しかし、大正政変を経て誕生した「桂新党」(立憲同志会→憲政会)は立憲政友会とともに政党政治をリードすることになる立憲民政党の前身である。
一方、山縣は政党を敵視し続けた。
桂と山縣とをひとくくりにして大正政変を論じることはできない。

2度の内閣を組織し、明治天皇から強い信頼を得ていた桂太郎は、「桂新党」の設立と山県系官僚閥を改革する新政策を模索していた。
これは、自ら結成した新党を政権基盤とする政権を樹立し、政友会への依存からの脱却と山縣からの自立を企図するものであった。
それを察知した山縣は、明治天皇崩御(死去)直後の1912年8月に桂を内大臣兼侍従長に押し込めて政治的引退を図る。
一方の西園寺も、政友会の党務を事実上取り仕切り、地方利益の追求をすすめる原敬との確執を強めていた。

そもそも増師問題は、当初は陸軍・政友会間での妥協が図られていた。
だが、これを政権復帰の好機と見た桂・「桂園時代」により政権から遠ざかっていた薩摩閥両者の思惑が上原を強硬な態度へ導いたことで大きな問題となったのである。
事態の急変に対して山縣は、内閣と陸軍を調停する優詔を起案したが桂により握りつぶされる。
体調不良と原との確執により既に政権続行への意欲を失っていた西園寺と、桂との会見で山縣の真意が倒閣にあると曲解した原は、内閣総辞職を決断、「山縣の手による倒閣」が成功する。

後継首相の選定は、薩摩閥の推す松方正義が高齢を理由に辞退、同じく薩摩閥の山本権兵衛、山県閥の平田東助が政権運営の困難を理由に辞退したことで混迷し、大命は桂に降ることとなった。
桂は斎藤実海相を優詔により留任させると、若槻禮次郎、後藤新平ら自前の官僚勢力、イギリス流政治を信奉する加藤高明(駐英大使)を入閣させて自前の内閣を組織している。
桂の新政策とその意欲の一方で、優詔政策の失敗など護憲運動への対応の迷走、政友会との決定的な対立、貴族院工作の失敗、山縣・寺内正毅ら陸軍内部からの不信が桂を追いつめていくことになる。

大正政変は藩閥勢力に大打撃を与えるとともに、政権担当能力を有する第二党の成長も出遅らせることとなった。

また、西園寺は「違勅」(政争を辞めるようにとの天皇の「優詔」に違反した罪)を盾に政友会総裁の辞任を表明する。
桂が出させたものであるとはいえ、「公家は天皇の藩屏でなければならない」と信じる西園寺にとって、自分が率いる政友会が天皇の詔勅を無視したことは許されないという論理である。
政友会の幹部達はこの「違勅」の論理に困惑したが、西園寺の決意は揺らぐことが無かった。
西園寺が後継に指名した松田正久の死去により、後継総裁に原敬が就任して立憲政友会は新たな段階へと進むことになる。

歴史的意義

日比谷焼打事件でも示された民衆運動の力がついに政権を覆した。
民衆の直接行動が内閣を倒した最初の事例である。
藩閥政治の行き詰まりと民主政治の高まりを示すこととなり、これ以後、普選運動など大正デモクラシーの流れをつくっていった。
松尾尊兌は、ここに始まる大正デモクラシーが一部の都市知識人による脆弱な輸入思想ではなく,戦後民主主義に直結する性質を有する、広汎な民衆運動であったことを説いている。

結果

1913年1月、護憲運動のさなか、桂は立憲政友会に対抗するため、自ら政党を結成した(桂新党)。
2月に桂内閣は倒れ、その年の10月に桂も死去するが、これが立憲同志会、のちの憲政会となった。

桂退陣後に成立した第1次山本内閣は、立憲政友会を与党とし、原敬(内相)や高橋是清(蔵相)ら政友会の有力者を閣僚としてむかえた。
山本は世論を怖れて、桂の二の舞を踏むことを避け、軍部大臣現役武官制を緩和して予備役・後備役でも可とし、政党勢力に譲歩するなど、国民に対して融和的な政治をとることで政局の安定化を図った。

一方、第1次山本内閣への入閣という形で利益を得る事になった立憲政友会に対して、国民はもちろんの事、立憲国民党や政友会内部からも反発が噴出して尾崎行雄は岡崎邦輔らとともに政友会を離党する(岡崎は後に復党するが、尾崎はそのまま中正会を結党した)。
政友会は議会での孤立と党首不在という2つの非常事態に陥った。

広義の大正政変

冒頭に示した通り、大正政変の時期には広狭二義ある。

第1次山本内閣の時代を含めることにより、この時期の民衆が一方では憲政擁護運動以来の反閥族感情を保ちながらも、他方では1913年7月の辛亥革命の混乱に際しては、革命派擁護を名目とする対中出兵論に容易に乗るような大正デモクラーの一側面が視野にはいってくる。
松尾尊兌はこれを「内には立憲主義、外には帝国主義」という二面性をもったものとして説明している。

シーメンス事件によって第1次山本内閣が倒れたのち、民衆に人気のある大隈重信が立憲同志会、大隈伯後援会および中正会を与党として2回目の組閣をおこなった。
ここでは山東半島におけるドイツ帝国勢力の駆逐と中国利権の確保を契機として、政友会と国民党は選挙で敗北した。
陸軍二個師団増設が議会を通過し、のちに中国人のナショナリズムをおおいに刺激することになる「対華21か条要求」が国民的承認をうけるのであった。

[English Translation]