大逆事件 (Taigyaku Jiken (High Treason Case))

大逆事件(たいぎゃくじけん)

1882年に施行された旧刑法116条、および大日本帝国憲法制定後の1908年に施行された刑法73条(1947年に削除)が規定していた、天皇、皇后、皇太子等を狙って危害を加えたり、加えようとする罪、いわゆる大逆罪が適用され、訴追された事件の総称。
日本以外では皇帝や王に叛逆し、また謀叛をくわだてた犯罪を、大逆罪と呼ぶことがある。

特に一般には1910,1911年(明治42,43年)に社会主義者幸徳秋水らが天皇暗殺計画を企てたとして検挙された事件を指す(幸徳事件ともいわれる)。

概要

政治制度として天皇制を重視した大日本帝国憲法下の日本政府は大逆罪を重罪とし、死刑・極刑をもって臨んだ。
裁判は非公開で行なわれ、大審院(現・最高裁判所)が審理する一審制(「第一審ニシテ終審」)となっていた。
これまでに知られている大逆事件には、次の四事件がある。

1910年

- 幸徳事件

1923年

- 虎ノ門事件(虎の門事件とも表記される)

1925年

- 朴烈事件(「朴烈、金子文子事件」とも呼ばれる)

1932年

- 桜田門事件(李奉昌事件とも呼ばれる)

単に「大逆事件」と呼ばれる場合は、その後の歴史にもっとも影響を与えた1910年の幸徳事件を指すのが一般的である。

虎ノ門事件と桜田門事件が現行犯で、幸徳事件と朴烈事件は、当時、計画段階で発覚したとされた。

参照条文
旧刑法第116条天皇三后皇太子ニ対シ危害ヲ加ヘ又ハ加ヘントシタル者ハ死刑ニ処ス

1947年改正前の刑法第73条天皇、太皇太后、皇太后、皇后、皇太子又ハ皇太孫ニ対シ危害ヲ加ヘ又ハ加ヘントシタル者ハ死刑ニ処ス

幸徳事件

1910年(明治43年)5月25日、信州の社会主義者宮下太吉ら4名による明治天皇暗殺計画が発覚し逮捕された「信州明科爆裂弾事件」が起こる。
以降、この事件を口実に全ての社会主義者、アナキスト(無政府主義者)に対して取り調べや家宅捜索が行なわれ、根絶やしにする弾圧を、政府が主導、フレームアップ(政治的でっちあげ)したとされる事件。

信州明科爆裂弾事件後、数百人の社会主義者・無政府主義者の逮捕・検挙が始まり、検察は26人を明治天皇暗殺計画容疑として起訴した。
松室致検事総長、平沼騏一郎大審院次席検事、小山松吉神戸地裁検事局検事正らによって事件のフレームアップ化がはかられ、異例の速さで公判、刑執行がはかられた。
平沼は論告求刑で「動機は信念なり」とした。

1911年1月18日に死刑24名、有期刑2名の判決(鶴丈一郎裁判長)。
1月24日に幸徳秋水、森近運平、宮下太吉、新村忠雄、古河力作、奥宮健之、大石誠之助、成石平四郎、松尾卯一太、新見卯一郎、内山愚童ら11名が、1月25日に1名(菅野スガ)が処刑された。
特赦無期刑で獄死したのは、高木顕明、峯尾節堂、岡本一郎、三浦安太郎、佐々木道元の5人。
仮出獄できた者は坂本清馬、成石勘三郎、崎久保誓一、武田九平、飛松与次郎、岡林寅松、小松丑治。

赤旗事件で有罪となって獄中にいた大杉栄、荒畑寒村、堺利彦、山川均は事件の連座を免れたが、数多くの同志を失い、しばらくの期間、運動が沈滞することになった。
この事件は文学者たちにも大きな影響を与え、石川啄木は事件後ピョートル・クロポトキンの著作、公判記録を研究した。
徳富蘆花は「謀反論」講演で死刑廃止論の立場を鮮明にした。
また、秋水が法廷で「いまの天子は、南朝の天子を暗殺して三種の神器をうばいとった北朝の天子ではないか」と発言したことが外部へもれ、南北朝正閏論が起こった。

敗戦後、関係資料が発見され、暗殺計画にいくらかでも関与・同調したとされているのは、宮下太吉、菅野スガ、森近運平、新村忠雄、古河力作の5名にすぎなかったことが判明した。
1960年代より「大逆事件の真実をあきらかにする会」を中心に、再審請求などの運動が推進された。

虎ノ門事件

1923年12月27日、難波大助(なんば だいすけ)が虎ノ門で第48帝国議会の開院式に向かう摂政・皇太子裕仁親王(後の昭和天皇)の車に向けてステッキ状の拳銃を発砲・狙撃し、現行犯で逮捕された暗殺未遂事件。
皇太子に怪我は無かったが、隣に座っていた侍従が顔に負傷。
1924年11月13日に大審院で死刑判決。
11月15日に死刑執行。
この事件により、山本権兵衛内閣は総辞職、警視総監・湯浅倉平、警視庁警務部長・正力松太郎らが懲戒免職、難波の出身地である山口県の知事が2ヶ月間の減給となった。
衆議院議員で庚申倶楽部だった大助の父難波作之進は即日議員辞職し、山口県熊毛郡 (山口県)周防村(現・山口県光市)の自宅で閉門蟄居後、食事を取らず餓死した。

朴烈事件

1923年9月1日に起きた関東大震災の2日後、戒厳令下に朝鮮民族が民衆によって私刑を受けた。
その震災後の混乱期に、「保護検束」の名目で検挙されたアナキスト・朴烈と愛人の金子文子が、翌1924年2月15日に爆発物取締罰則違反で起訴され、1925年5月2日に朴烈が、5月4日に文子が、それぞれ大逆罪にあたるとされた事件。

1926年3月25日に死刑判決。
4月5日に恩赦で懲役に減刑されるが、文子は特赦状を刑務所長の面前で破り捨てた。
同年7月22日に栃木女囚刑務所で、文子は刑務官の目を盗んで縊死。
同年7月には内閣転覆を狙った北一輝により取調中に朴の膝に金子が座り抱擁している写真が政界にばらまかれ獄内での待遇が数ヶ月政治問題化した。
朴烈は敗戦後の1945年10月27日に出獄。
いまや徹底した反共主義の持ち主であった朴は在日本朝鮮人連盟(朝連、在日本朝鮮人総聯合会の前身)への参加を避け、1946年10月に在日本大韓民国民団の前身となる在日本朝鮮居留民団を結成し、初代団長を1949年2月まで勤めた。
帰国後李承晩政権の国務委員を勤めるが、朝鮮戦争の際、朝鮮民主主義人民共和国へ連行。
後に南北平和統一委員会副委員長として活動。

桜田門事件

朝鮮独立運動の活動家・李奉昌(イ・ボンチャン)が1932年1月8日、桜田門外において陸軍始観兵式を終えて帰途についていた昭和天皇の馬車に向かって手榴弾を投げつけ、近衛兵一人を負傷させた事件。
李奉昌事件、あるいは桜田門不敬事件とも呼ばれ、また日本政府は李奉昌不敬事件と呼んだ。
時の首相犬養毅は辞表を提出するも慰留された。
9月30日、李は大審院により死刑判決を受け、1932年10月10日に市ヶ谷刑務所で処刑された。
1946年に在日韓国・朝鮮人が遺骨を発掘、故国である朝鮮において国民葬が行われた。
「義士」として白貞基、尹奉吉らと共にソウル特別市の孝昌公園に埋葬されている。

[English Translation]