安和の変 (Anna Incident)

安和の変(あんなのへん)は平安時代の969年(安和2年)に起きた藤原氏による他氏排斥事件である。
謀反の密告により左大臣源高明が失脚させられた。

967年(康保4年)5月25日、村上天皇が崩御し、東宮(皇太子)・憲平親王(冷泉天皇)が即位する。
関白太政大臣に藤原実頼、左大臣に源高明、右大臣には藤原師尹が就任した。
冷泉天皇にはまだ子がなく、また病弱(精神の病に罹っていた)でもあったため早急に東宮を定めることになった。
候補は村上天皇と皇后藤原安子の間の皇子である冷泉天皇の同母弟の為平親王と円融天皇であった。
年長の為平親王が東宮となることが当然視されていたが、実際に東宮になったのは守平親王であった。

これは為平親王の妃の父が左大臣源高明であり、もしも、為平親王が東宮となり将来皇位につくことになれば源高明が外戚となり権勢を振るうことになりかねず、これを藤原氏が恐れたためであった。
源高明は村上天皇からの信任篤く、また皇后安子の父で右大臣だった藤原師輔の娘を妻として親交があったが、両人とも既に亡く、宮中で孤立しつつあった。

969年(安和2年)3月25日、左馬助源満仲と前武蔵国介藤原善時が中務少輔橘繁延と左兵衛大尉源連の謀反を密告した。
右大臣師尹以下の公卿は直ちに参内して諸門を閉じて会議に入り、密告文を関白実頼に送るとともに、検非違使に命じて橘繁延と僧・蓮茂を捕らえて訊問させた。
さらに検非違使源満季(満仲の弟)が前相模国介藤原千晴(藤原秀郷の息子)とその子藤原久頼を一味として捕らえて禁獄した。
固関使が派遣され関所が固められ、さながら承平・天慶の乱の時のようであったという。

事件はこれに留まらず、左大臣源高明が謀反に加担していたとされ、大宰権帥に左遷することが決定した。
高明は長男・源忠賢とともに出家して京に留まるよう願うが許されず、26日、邸を検非違使に包囲されて捕らえられ、九州へ流された。

密告の功績により源満仲と藤原善時はそれぞれ位を進められた。
また、左大臣には師尹が代わり、右大臣には大納言藤原在衡が昇任した。
一方、橘繁延は土佐国、蓮茂は佐渡国、藤原千晴は隠岐国にそれぞれ流され、さらに源連、平貞節の追討が諸国へ命じられた。

密告の内容がどのようなもので、源高明がどう関わっていたのかは不明である。
後世の「源平盛衰記」には為平親王を東国に迎えて乱を起こし、帝につけようとしていたと書かれているが信用できない。
ただ、この事件が初めから源高明の失脚を目指していたことは明白で、これが藤原氏による最後の他氏排斥事件となった。
また、藤原氏の中でも実頼・師尹派と師輔派の確執があり、そのとばっちりを高明が受けたのではないかという説もある。
この説によれば、本来の目的は高明のみならず、あわよくば師輔の子供である藤原伊尹兄弟(高明の義兄弟にあたる)の失脚も狙った計画であったものの、高明夫人(師輔の娘)の没後に高明と疎遠になっていた伊尹兄弟もむしろ高明追放後の昇進に期待をかけて高明排斥に積極的に加担したために、彼らを排する機会を逸したというのである。
更に藤原実頼の健康状態の悪化と事件との関連も指摘されている。
当時、冷泉天皇は「狂気の病」とされて政務が行える状況には無く、一方、関白太政大臣であった実頼の高齢による健康悪化が懸念されていた。
もし、実頼に万が一があった場合、一番近い外戚で次期関白候補であった伊尹はいまだ権大納言で関白就任資格を有していなかった。
このような関白不在が許されない状況下において、長年上卿として太政官において政務にあたってきた高明が臨時に関白に就任する可能性も否定できず、長年の藤原氏による摂関独占の原則が崩壊する可能性があった。
このため、高明の関白就任の可能性を絶つために仕掛けたとも言われている。

その後、安和の変から僅か1年余りで高明は帰京を許されている。

また、京で源満仲と武士の勢力を競っていた藤原千晴もこの事件で流罪となり藤原秀郷の系統は中央政治から姿を消し、清和源氏が京での勢力を伸ばし、京武士として摂関家と強く結ぶようになった。

[English Translation]